「神のことば人になる」

ヨハネの福音書 1章1-18節
1. 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2. この方は、初めに神とともにおられた。

3. すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

4. この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

5. 光は闇(やみ)の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

6. 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。

7. この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。

8. 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

9. すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

10. この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

11. この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

12. しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

13. この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

14. ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

15. ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後(あと)に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」

16. 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

17. 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

18. いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

礼拝メッセージ

2025年5月18日

ヨハネの福音書 1章1―18節

「神のことば人になる」


2011年3月11日の東日本大震災発生から数ヶ月たった時、私は本屋に出かけました。お店に入ってすぐの一番目立つところに積まれていた本のタイトルを見て、私は驚きました。『ドラッカーの言葉』、『カーネギーの言葉』、『孔子の言葉』、『ブッタの言葉』、『ニーチェの言葉』など、歴史上、大きな業績を成し遂げた経済人、思想家、宗教家の名言をまとめた本がたくさん積んでありました。

想像すらしていなかったあの大地震・大津波・原発事故の大惨事を体験した時、日本人は、確かで揺るがないものを求めました。本当に価値あるもの・本当に信頼できる言葉を求めました。「人とは何者なのか? 人は何のために生きるのか? 人はどこから来て、どこへ向かっていくのか?」と、自分と他者とこの世界の根源とか、目的といった究極的問題を真剣に考えました。

このような問いは、昔から真剣に考えられて来ました。今から二千五百年ほど前、ギリシャのタレスという人は、目に映る自然界や物事の元々の姿、根源は何であるのかを追求しました。そしてタレスは、「万物の根源は水である」と考えました。

このような人々は、哲学者と呼ばれて来ました。高校の社会科の「倫理」という授業の最初に、この「万物の根源は、〇〇である」というギリシャの哲学者たちの色々な説を学んだことを覚えていませんか? 他の哲学者は、万物の根源は「空気だ」、「土だ」、「火だ」などと主張しました。

万物の根源は「数」だと考えたピタゴラスや、アトム(目には見えない最小の原子)というものが、万物の根源だと考えたデモクリトスという哲学者もいました。

二千五百年も昔に、ギリシャの頭の良い人たちは、難しいことを真剣に考えていたのだなあと、頭が下がります。彼らが真剣に追い求めた「万物の根源」とか、「世界と宇宙を形造り、それを動かしている究極的な原理」のようなものこそ、まさにヨハネの福音書1章に出てくる「初めに」という単語と「ことば」という単語なのです。1章1節の「初めに」という単語は、ギリシャ語では「アルケー」という単語です。哲学者たちが探求していた万物の根源も、「アルケー」でした。そして「ことば」と訳された「ロゴス」という単語も、同じく哲学者たちが、究極的原理を語るのに使った言葉でした。

ヨハネがこの福音書をエペソの町(今のトルコ西海岸の町)で書いていた時、周りの多くの人たちは、ギリシャ哲学の影響を大きく受けていました。この世界に存在するもので、世界の究極的原理を説明しようとしていました。そんな人たちに、ヨハネは全く別の角度から光を照らそうとしたのです。 「人はいかに生きるべきか?」 究極的な問いをちっぽけな人間の頭であれやこれや考え、答えを導き出そうとしていた人たちに、聖書は全く別次元からの答えを与えてくれるのです。

ヨハネの福音書 1章 1―3節
1. 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2. この方は、初めに神とともにおられた。3. すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

聖書は私たちに、万物の根源は「ことば」なのだと教えます。初めからあるもの、永遠にあるもの、何があっても変わらないものは「ことば」だと。聖書の第1ページ、先ほど交読した創世記1章1節には、「はじめに神が天と地を創造された。」とあります。神様は、ご自身のおことばで、宇宙も地球も動植物も人間もすべてのものを創造してくださいました。神様のことば、それは「光、あれ。」と、一言発せられると、即座に光が出現する絶対的な「ことば」です。

神様のことばは、無から有を生み出すことばです。茫漠(ぼうばく)とした地(いのちの存在しえない荒廃した場所)に、多種多様ないのちをもたらしてくださいました。闇のような絶望のただ中に、希望の光を生み出してくださいました。それが神のことばなのです。

ヨハネは、創世記1章1節の天地創造の時も、いやそれよりはるか永遠の昔から、この「ことば」が神とともにあったのだ!「ことば」は神であった!と語るのです。つまり、この「ことば」とは、「あー」とか「エー」と口から出て、耳に入って来る「音声」ではなくて、また鉛筆やペンで書かれて、読むことのできる「文字」でもなくて、「実体のあるお方」、「人格をもっておられる神」ご自身のことなのです。 ― もう、皆さんお分かりでしょう。「初めにことばがあった。」 この「ことば」は、父なる神様と常に共におられるお方 = 神のみ子イエス様のことなのです。

天地創造の時にも、それ以前にも父なる神様と共におられるお方。万物の根源なるお方。このお方こそ、主イエス・キリストなのだと、ヨハネは紹介するのです。

イエス様は、十字架に架けられる直前、父なる神様に、このような祈りをささげられました。ヨハネの福音書17章5節です。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」 世界が存在するより前から、つまり天地創造以前から、イエス様は父なる神様といつも一緒におられるのです。

私たちは、イエス様のことを優しく愛に満ちたお方、私たちを「友」と呼んでくださるお方だと親しく感じています。イエス様は二千年前、人となって私たちの世界に来られ、私たちと共に住み、私たちの友となってくださいましたが、このお方は本来、永遠に存在される生けるまことの神なのです! 3節「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」とあるように、イエス様は、父なる神、聖霊なる神とご一緒に、三位一体の神として天地万物を創造され、今も昔も永遠に全てをご支配してくださっています。

主イエス様が天地万物の存在に関わってくださっている。この私の誕生、存在、性格、生活、人生すべてにも永遠に関わっていてくださる。無関心であるなんてありえず、いつも見守り、関心を持っていてくださる。そのことを知り、体験し、心の底から「アーメン!その通り!」と実感できるとしたら、どれほど心強く、安心できることでしょう。

さらに、この真(まこと)の神=全能なるお方が、何にも出来ない小さな赤ちゃんとなられて、この地上に生まれて来てくださったのです。あの汚い飼い葉おけの中に生まれて来てくださったのです。クリスマスの事実(最も尊いお方が、最も貧しくなられたこと)を、私たちはもっと厳粛に、もっと真剣に、もっと畏れ多いこととして、もっと感動し、感謝し、受け止めていかなければ、ならないのではないでしょうか!

真(まこと)の神、永遠なるお方が、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(14節)のです。天地万物を創造され、支配しておられる神が、天上はるかかなたにいて近付けない神ではなく、神様の方から、私たちの世界に降りて来られ、人間と苦楽を共にされたのです!

それなのに、イエス様は愛そうと近付いた人々から、反対に拒絶されました。受け入れようと近付いた人々から、否定されました。共に生きようと近付いた人々から、馬鹿にされ、ののしられ、だまされ、殺されることをイエス様は体験されていくのです。宿屋には、イエス様の居場所は無かったのです。ふるさとでみことばを語り、御業をなすと、出て行けと追い出されました。人の子には枕する所すらありませんでした。そして、ご自身が選び、教育し、信頼していた弟子たちからも裏切られました。最後には、完全に無実のお方が十字架で死刑囚として殺されたのです。

イエス様は、神様ですから、そうなることを全てご承知の上で、この地上に人となって、しかも何も出来ない赤ん坊となって来てくださったのです。これこそクリスマスの出来事なのです。

 キリストが十字架で無残な死を遂げられたことは、闇の力が勝利したようでした。しかし、キリストの死は終わりではありませんでした。キリストは、墓の中からよみがえられたのです。キリストの死・キリストの復活は、神様の勝利でした。私たちの罪を赦し、私たちに本当のいのち(いのちの主なる神様との決して切れることのないきずな)=永遠のいのちをもたらしたのです。

十字架で死なれよみがえられたイエス様こそ、私たちにまことのいのちを与える救い主であられ、私たちの人生にそして心に本物の光を照らすお方なのです。

4. この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。5. 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかったた。

光は闇に差し込みます。暗い部屋のカーテンを開ける時、外から一筋の光が差し込みます。その時、暗い間には見えなかなった、空気中に舞っているホコリに気付くことがあります。そのように、まことの光は、私たちの本当の姿を明るみに出しました。イエス様が指摘されたのは、私たちの心の内側、私たちの本当の姿でした。まことの光によって、私たちの罪が明らかにされたのです。

ユダヤの宗教指導者や政治家たちは、表面上は宗教的に立派に振舞うことができました。けれども、イエス様は彼らの内面をあぶり出されたのです。自分本位で、社会的弱者を苦しめ、神様をないがしろにしている本当の姿。神様の御心とは正反対の歩みをしている本当の姿を、イエス様は明るみに出されました。彼らは、光に照らし出された「自分の本当の姿」に耐えられませんでした。罪を認め、悔い改めることができませんでした。反対に、怒り狂い、光そのものを消し去ろうとしたのです。耳の痛いこと、都合の悪いことを指摘するまことの光を葬り去ろうとしたのです。

10. この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11. この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。

宗教家たちとは対照的に、彼らから「罪人・罪深い汚れた奴らだ」と見下されていた人たちの心の中に、イエス様は温かい愛の光を照らしてくださいました。彼らの内にある神様を求める信仰、「赦されたい、救われたい、人生をやり直したい」と願う彼らの心の叫びを聞いてくださったのです。

12.しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

「神の子どもとなる特権」 あのルカ福音書15章11節からのイエス様のたとえ話に登場する放蕩息子(弟)の姿が浮かんできます。父親のもとを勝手に飛び出し、罪にまみれた生活をしてしまった。親子の関係が断絶してしまったように見えた。けれども、その子が立ち返り、父親の元に戻った時、赦され、もう一度、新しく生まれ変わることができたのです。彼は慈愛に満ちた父と出会ったのです。そして父の息子となることができたのです。

それに対して兄息子は、父の元でまじめに暮らしながら、本当の意味で父の息子ではありませんでした。出て行った弟息子のことが心配で心配でたまらず、いつもずっと帰還を待っている父の思い、父の願いを知りませんでしたし、受け入れられませんでした。

皆さんは、どちらでしょうか? どこかで兄息子のようになってはいないでしょうか? 愛といつくしみと赦しと恵みに満ちた神様だと分からないまま、生きてしまっている。日々の忙しさ、思いわずらい、心配事、悩み事、なすべきこと等で心がいっぱいになっていて、イエス様を思わずに、今日を歩んでしまった。「イエス様」とより頼まずに今日を生きてしまった…そんなことはないでしょうか?

「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた」私たちであり続けましょう。神の子どもであり続けましょう。

 このお方を受け入れるとは、まことの光に照らし出され、自らの罪が示されたならば、それを認め、神様の御前で悔い改めていく。そしてイエス様が十字架と復活によって成し遂げてくださった救いを信じ、受け取っていくのです。このお方だけを信じていく。他のものにより頼まない、そんな純粋さ。小さな子どもが親をまっすぐに信頼するような心を、神様は私たちに求めておられるのです。

 まことの光が、もうすでに2千年前に来てくださいました。このお方は、十字架の死と復活によって、すべての人のための救いの道を完成してくださいました。まことのいのち=いのちの主との永遠のつながりを与えるために、イエス様は道を開いてくださいました。父なる神様は、「わたしの大切なひとり子を受け入れてほしい!このお方を信じて、まことのいのちを自らのものとしてほしい!」と願っておられ、今日もあなたからの応答を待っておられます。

祈りましょう。

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