「神の子が与えられた」

ヨハネの福音書3章16-21節
16. 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17. 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

18. 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

19. そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

20. 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。

21. しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。



礼拝メッセージ

2025年6月29日

ヨハネの福音書3章16-21節

「神の子が与えられた」


オリンピックなど世界的スポーツ大会をテレビで見ていますと、時々、観客席の中の誰かが“JOHN 3:16”と書かれたプラカードのようなものを掲げているのを見つけます。JOHN(ジョン)は英語でヨハネのことです。つまりテレビカメラを通じて、世界中の人たちに「ヨハネの福音書3章16節を読んでね!」とアピールしているのです。

このみことばは、「聖書の中の聖書」、「福音の中の福音」とも言われたりします。聖書全体を一文で要約すると、この文章になるという意味で「ミニバイブル」と呼ぶ人たちもいます。私たちにとって、本当に大切なみことばです。暗記されている方もおられるでしょう。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 天の父なる神様は、神様の前では欠けだらけの私たちを“さばくため”にではなく、 →  “赦してくださり”、“全く罪のない者として神様の御前に立たせてくださるために”、 → 大切なひとり子イエス様を遣わされました。

罪を持ったままの私たちが“滅ぼされ、永遠に地獄で苦しむこと”が無いように、 → 私たちをそこから“救い出し、天の御国に入れてくださり、永遠のいのちを与える”ために、かけがえのないご自身のひとり子イエス様を私たちにお与えくださいました。

 そこまでしてくださるほど、「世」=この「世界」を=この「世界に生かされている私たち人間」を、神様は愛しています! 愛されて当然の、愛されるに価する私たちではありません。この「世」について、ヨハネは、1章10、11節で、

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」

 造って頂き、いのちも頂き、生かされているにも関わらず、創造主(そうぞうぬし)なるいのちの主(しゅ)を知らずに、平気な顔をして生きている、本当に恩知らずなこの世の人たち ― それは、まさに私たち自身の姿なのですが、 ― そんな世に、イエス様は遣わされて来ました。そして、キリストを受け入れようとしないこの世の人々のために、イエス様は、十字架に架かり、ご自身の大切ないのちをささげてくださったのです。

 使徒パウロは、神様のあまりにも大き過ぎるご愛をこのように伝えます。ローマ人への手紙5章6-8節

6. 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。7. 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。8. しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

私たち人間の愛は、自己中心で、独りよがりで、限界のある愛です。自分の子どもと他人の子どもを同時に、全く同じようには愛せません。自分の子どもだって、2人、3人といれば、方々から飛んでくる「お父さん、聞いて」、「ねえ、ねえ、お母さん」という複数の子どもたちの話を、同時に聞くことは私たちにはできません。完全とは程遠い愛です。愛情と損得勘定、憎しみと嫉妬といった感情が入り混じっている100%純粋とは決して言えないもの。それが、私たちの心の内にあるものではないでしょうか?

 それに対して、神様の愛はアガペーの愛です。見返りを期待しない愛です。無条件で、他者のために惜しみなく注がれる続ける愛です。100%純粋な限界のない愛です。

天の父なる神様は、ひとり人子イエス様のことを嫌いになったので、愛情を失ってしまったので、地上に追いやったのでは決してありません。天上から何度も、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17、17:5など)と、イエス様を呼んでくださいました。ひとり子イエス様のことも完全に愛しておられる父なる神様は、同時にこの地上の私たちのことも、いつも愛してくださっていて、どうしようもない私たちをなおも救いたいと、大事なひとり子に大切な使命を託されて、この地上に送ってくださったのです。

先ほど、聖書交読で創世記22章をともに見ました。信仰の父アブラハムが待望のひとり息子イサクを、神様の命令に従って、いけにえとしてささげようと出ていった場面でした。恐ろしく、わけのわからないように感じられる神様の命令でしたが、それは、やがて天からこの地にひとり子イエス様を遣わし、ゴルゴタの丘の上で、人の罪の身代わりにひとり子を犠牲にされた神様の壮絶な愛を、前もって指し示すアブラハムへの命令であったのです。

 ヨハネ3:16の主語は、「神は」です。神様が主導権を握って、あなたを救い出すのです。父なる神様・イエス様・聖霊なる神様=三位一体なる神様が、あなたを救い出すのです。

 ニコデモとの対話、そして今日の聖書箇所(ヨハネ3:16―21:この箇所は、イエス様がニコデモに語られた内容とも、あるいは、福音書記者ヨハネが神様の救いのみわざを示されて記録した内容とも考えられている)を通して、私たちが罪を赦され、永遠のほろびから救い出され、生かされるために、父・子・聖霊なる神様の連携したお働きがあるのだということを、私たちは教えられるのです。

 3:3で、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と、人の救いは、新しく=上から:神様によって与えられるのだと語られ、

3:5には、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と、聖霊の導き、働きかけがあって初めて、人はイエス・キリストを信じる信仰に導かれ、水の新生(洗礼)にあずかることができると教えられ、

3:14,15には、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と、人の子=イエス様が私たちの身代わりに十字架で打たれ、罰せられ、おいのちを落とされた。このイエス様を信じ、「赦してください、あわれんでください、救ってください」と信頼し見上げるなら、私たちは永遠のいのち(神様といつも永遠につながって生かされるいのち)を頂けることが示され、

そしてヨハネ3:16は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と、私たちを救い出すために、父なる神様がなさった大きなみわざ、負われた大きな犠牲を語るのです。

私たちを闇から救い出したい、罪を赦したい、死から救い出したいと三位一体の神は強く願われ、まことの光なるイエス様が2000年前、闇に満ちたこの世界に遣わされて来ました。その光に吸い寄せられるように、集まって来た人たちもいました。

3章21節、「しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る」

ニコデモもその一人でした。

またマタイの福音書9:10には、

「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた」

と、世の中で「罪人」だとさげすまれていた人たちが、イエス様を慕って集まって来たと記録されています。

それに対して、「義人・聖人」と見られていたニコデモと同じ宗教指導者たち(パリサイ人や律法学者、サドカイ人)の多くは、イエス様を批判し、迫害し、死に追いやるために、イエス様に敵意を向けたのです。光を求めて、「真理を教えてください。神様の愛と救いを教えてください」という姿勢とは正反対でした。

ヨハネ5:16「そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。」
5:18「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。」
7:32 「それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。」
8:59 すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
9:22すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。
11:53 その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ。

聖書は、このような者たちを「信じない者はすでにさばかれている。」(3:18)、また「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」と厳しく指摘します。

私たち罪人を「救おう・生かそう」と、光なるイエス様が来てくださったのに、このお方を拒絶し、敵対し、受け入れようとしない人の闇があるのです。この救いを拒絶するなら、神様との関係が切れてしまうのです。もう、つながらなくなってしまうのです。それこそ、いのちの主との関係が途絶えてしまった状態=さばかれ、滅びに至っている状態なのではないでしょうか。

まことの光を見つめ、この光から目を離さず、光に向かって歩んで行きたいと願います。


 2017年に96歳で天に召された大伝道者、羽鳥明先生は

16歳の時、清水の舞台から飛び降りるような大決心をし、鼻水と涙を流しながら、イエス・キリストを私の救い主と信じました。その夜、教会の老牧師が青年、羽鳥明の手をしっかり握って。こう言ってくれたそうです。「羽鳥さん。おめでとう。でもね、羽鳥さんが神をつかんだ、救いを自分の手に入れた、と思っているなら大間違いですからね。私たちの信仰なんて弱いですからね。やがて必ずといっていいほど、手が疲れて神を放してしまう時が来ますよ。羽鳥さん、あなたが神をつかんだのではありません。神様が初めからあなたをつかんでいて下さるのです。神様の手は疲れたりしません 。」
羽鳥明、『ヨハネの福音書・霊想 みことばの泉』、(いのちのことば社、1987年)、39ページ。


 もう一人、ある主婦の救いの証しを紹介します。

私は特別の病気を持っている人間です。そのため今までさまざまな宗教の人たちからいろいろな誘いを受けました。その人たちは、自分たちの宗教を一生懸命やれば病気は直ると言います。そして、キリスト教のような愛の教えだけでは病気は直らないし、奇蹟も起こらない、環境だって変わるはずがないと語気を強めてよく言われました。
 現実的には、キリスト教の愛は何の効き目もなく、無力に見えます。でも私は言いたいのです。三十数年の人生経験を通して、私は愛のゆえにつまずき、愛のゆえに救われました。この事実を、愛の尊さを、愛こそ勝利であると叫びたくてなりません。
 きよいイエス様がなぜ人となられ、人間として最高の苦しみと屈辱を味わわなければならかったのでしょうか。そのわけが今やっと分かりました。そんなすばらしいイエス様だからこそどんな人のどんな苦しみも分かってくださり、どんな人にも愛の手を差し伸べて受け入れてくださるのだ、ということを。イエス様は私のあらゆる罪を背負って十字架にかかり、私たちのために神様にとりなしてくださいました。この神様の愛が今私の心の中で炎のように燃えているのです 。
村上久『新聖書講解シリーズ ヨハネの福音書』、(いのちのことば社、1982年)、49ページ。


 あなたの心の中に神様の大いなる愛の炎が燃えていますか? 小さな火種でも良い、神様から愛の火を頂いて、それを燃え立たせて頂きましょう。祈ります。

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