ヨハネの福音書 5章 19―29節
19. イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。
20. それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。
21. 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
22. また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。
23. それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。
24. まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
25. まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。
26. それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
27. また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。
28. このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
29. そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。
礼拝メッセージ
2025年8月17日
ヨハネの福音書 5章 19―29節
「死からいのちに移っている」
「子は親の鏡」という詩があります。また「子は親を映す鏡」とも言われます。皆さんも「ああはなりたくなはいなあ」と反面教師だと反発して来た親と、どこか似て来てしまったなあ…と感じることがあるのではないでしょうか? しぐさとか、考え方とか、生き方とか、私も亡き父に似ているのかなあと思うことが多々あります。
地上で10数年から数十年間、一緒に生活する人間の親子も似て来ます。なおのこと、永遠に父と子としてつながっておられるお方、天の父と御子イエス様の関係は、どれほどでしょうか。
今日開いたイエス様が語られたみことばは、哲学的表現が続いているようで、小難しく聞こえてしまうのですが、ここには、① 天の父とご自身の関係性について。② 天の父と御子イエス様が一緒に計画し、これから実現しようと向かっておられる大きな御業について。③ その神様の御業を信じ、生かされていく私たちの歩みについて。イエス様は教えようとされています。
イエス様はこの時、ユダヤ当局・ユダヤ教の教指導者たちから厳しく問い詰められていました。あの38年間、寝たきりだった男性を「起きて床を取り上げ、歩きなさい」のひと言で立ち上がらせたのが、安息日だったからです(5章8, 9節)。あらゆる労働が禁じられている安息日に、床を取りあげる労働をさせた、しかも、「わたしの父は、安息日でも働いておられる。永遠に365日24時間営業で、あなたたち人間を守るために、またこの世界を保つために働いておられる。だから息子である私も年中無休で、安息日であっても(安息日であるからこそ)人を救う業を行うのだ」と語られた直後でした。
ユダヤ当局は、このイエス様の発言に猛反発しました。恐るべき絶対者なる神様を「父」と軽々しく呼んだ!しかも父が働いているから息子も働くと、唯一なるお方=神と自分を同列に置いた。自分を神となぞらえるとは、なんというひどい問題発言か、この不届き者めがと、イエス様を攻撃したのです。神を冒涜する重罪人だとイエス様をおとしめようとするのです。
旧約聖書のレビ記24章15,16節に、このような戒めがあります。
15. あなたはイスラエルの子らに告げよ。自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う。
16. 主の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。
この罪状で、神を冒涜するものとして、ユダヤ当局は、イエス様を葬り去ろうとするのです。 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。(5章18節)
実際に十字架の直前、イエス様は取り調べの中で、ご自分のことを「神の子キリスト(救い主)だ。やがて世界の審判者としてわたしが天から降って来るのを、あなたがたは見るだろう」と本当のこと、ご自分の本当のお立場を宣言されます。その直後、祭司長たは「神を冒涜する重罪人め!」と激怒し、最高法院は一致して、死刑を求めていくのです(マタイの福音書26章63-66節)。
イエス様は永遠に神の御子であり、神であるお方です。それが真実・事実です。しかし、そのことを宗教家たちの前ではっきりと宣言されれば、殺されることを分かっていました。だからこそ、今日の箇所でイエス様は、はっきりと「そうだ」とはおっしゃらないのです。まだ時が来ていないから、まだ十字架の時ではないから、イエス様は小難しく聞こえる婉曲的表現で語られたのではないでしょうか。
しかし、よくよく今日のイエス様のことばを思い巡らしていくと、ここには、「わたしは神だ」、「天の父なる神と一体の神の御子だ」、「わたしはさばき主」であり、また「わたしは救い主・メシヤ・キリスト」だ。「わたしはいのちの主」だというイエス様が、ご自分の正体を明かされている表現が、こだましていることに気が付きます。
今日の箇所には、「まことに、まことに、あなたがたに言います。」という表現が3回も繰り返されています。19節、24節、25節です。イエス様が「大事なことを伝えるからね。ちゃんと覚えておくのだよ!」と、注意をうながす際に語られた定番のフレーズです。学校の先生に例えれば、「ここがテストに出るからね。ちゃんと覚えておくように」というフレーズに似ているでしょう。難しく思われる今日の箇所ですが、しっかり聞いていきましょう。
1. まずイエス様は、「御父と御子が一体なのだ」と語られます。
総理大臣の息子が、その立場を利用して官僚を接待し、自分が勤める会社に有利な取り計らいをしてもらったのではないか…と、国会で追及を受けたことがありました。それに対して、総理は「息子と私は完全に別人格です」と、自分は関係ない。息子が勝手にやったことだ、私には責任がないと答えました。ことの真偽は定かでありませんが、人間の親子関係にはそういうことがあるかもしれません。親に何の相談もなしに、息子が一人勝手にやったことと。
しかし、三位一体の神様は違うのです。19節、 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。 天の父と御子イエス様の思いと行ないは、完全に一致しているのです。イエス様はご自分の思い付きで、この地に降って来られ、勝手に行動されているのではないのです。ひとつひとつ父なる神様に祈り確認されながら、相談し合って、一致してことをなしてくださっているのです。
私たち自身の生き方・あり方・日々の行動の選択は、どうだろうか…? と、問われる、イエス様のみことばですね。
2. 三位一体の神が計画され、成就してくださった大いなるみわざ
父なる神と御子イエス様、そして聖霊なる神様が、私たちのために成し遂げてくださった驚くべきみわざとは、死んでいた者がよみがえらされ、生かされていくことです。先ほど交読したエゼキエル書37章のみわざです。イエス様が、この5章後半で語られている「死」と「いのち」とは、人間の肉体が生きている・死んでいるという状態のことではありません。私たちと神様との関係が生きている=しっかりとつながれているか、それとも死んでいる=断絶してしまっているかを表しています。
私たち人は、神様の御前では全員罪人です。さばかれるのではないか…罰せられるのではないか…と神様を恐れ、神様のことを考えないように、見ないように生きて来ました。神様の愛に気付かずに、罪の道を歩んでいました。 そんな私を救うために、三位一体の神様はみこころを定め、計画され、準備し(旧約聖書の中で王や預言者の口を通して、事前に約束を伝え)、実現してくださったのです。御子をこの世界に送り、救いを成就してくださったのです。 ― カナの婚礼で水をぶどう酒に変えてくださった(2章)。死にかけてていた王室の役人の息子の命を救ってくださった(4章46-54節)。38年間も寝たきりで、あきらめ、絶望しきっていた男性を立ち上がらせ、歩けるようにしてくださった(5章1-9節) - これよりも大きなみわざをイエス様は、父なる神様に示されて、聖霊に励まされて、実現されたのです。
20, 21節、
それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
イエス様が語られた「これよりも大きなわざ」とは、「死人をよみがえらせ、いのちを与えられる」みわざです。神様がお与えくださる救いのみわざです。25節にも、 まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。
まことの神を神として敬わず、信頼せずに、自分を神とするような状態の私たちでした。自分の人生は自分で決めると思い違いをしていました。そんなまことの神様から離れていた私を、反発していた私をつないでくださるために、御子イエス様は自らボンドのような、接着剤のような役割を担われたのです。私たちのために、自らのいのちを投げうって、自らを犠牲にして、父なる神様と私たちをつないでくださったのです。それも永遠に離れることのないようにつないでくださっています。これ以上の驚くべきみわざがあるでしょうか!?
3. 天国行きの列車・永遠のいのちを喜び生きる列車へと乗り換えさせて頂いた私たち
24節には、
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
と語られています。私たちは福音を聴いて信じた時から、イエス様を救い主と信じた時から、向かう先と乗り物が、全く別のものに変わったのです。裁判所へ連行される護送車から、また永遠のほろびという恐ろしい監獄へ連行される護送車から、天国行きの列車・永遠のいのちを喜び生きる列車へと乗り換えさせて頂いたのです。
今はもう興味を失ってしまっていますが、我が家の男の子たちは小さな頃、鉄道好きでした。近くの線路脇や駅までよく電車を見に連れて行きました。電車に乗って旅をするのも好きでした。運転席の真後ろに立って、ずっと進行方向を眺めていました。 まだ幼児だった子どもたちは午後疲れて来ると、電車の中で寝てしまいます。右腕に長男、左腕に次男と抱きかかえながら、私は乗り換えの駅で次の電車に乗り移り、新しい電車内で寝かせました。田舎のすいているローカル鉄道でしたので、そんなことも許されたのでしょう。
寝ているうちに進行方向が変わっている。本人が自覚していない状態で乗っている電車が変わっている。そんな子どもたちとの体験を思い出しながら、私たちの救い=神様からの一方的な恵みによる救いも、これと似ているのかなと思いました。
あの日あの時と明確に「死からいのちに移っ」た瞬間を自覚されている方もおられるでしょう。イエス様を信じて、救われた日あのことを。
また別の方は、自分では分からないうちに信じていた。信仰が与えられていた。無自覚に「死からいのちに移っ」ていたという方もおられるでしょう。
どのような形であったとしても、私たちの救いはみな恵みによるのです。寝ているうちに抱っこされて別の電車に乗り換えさせてもらっていたように、私たちはイエス様に抱きかかえられて、ほろびから救いの列車に、天国行きの列車に乗り換えさせていただき、今その旅の途中にあるのです。
信じることで救われる。信じるだけで救われる。信じるという、ただそれだけが、私たちに求められている救われるための善き行い(29節)です。
あなたが救われるに値する立派な人間になったからではありません。救われるに値する良いことをいっぱいしたからでもありません。父・子・聖霊が完成してくださった十字架と復活の救いのみわざが、もうすでに用意されているので、私たちはただそれを「ください」と手を伸ばすだけなのです。それが信仰なのです。
先日運転中、ラジオを付けていましたら、30年ほど前に流行った歌が流れていました。B’z(ビーズ)という有名なバンドの「愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない」という歌でした。その歌詞を聞いて、ドキッとしました。
「そう信じる者しか救わない せこい神様 拝むよりは 僕とずっといっしょにいる方が 気持ちよくなれるから」
という一節でした。正直思いました。すぐに好きになったり嫌いになったり心変わりしてしまう、いいかげんな「僕」を信頼する方が、よほど危ないよと…。また分かってほしいなと思いました。せこい神様ではなくて、どれほどふところの深い、気前の良すぎる神様であられるかを。永遠に変わることのない真実の愛を持ち、恵みに満ちている神様であられるかを知ってほしいと思いました。
放蕩息子の父親(ルカ15章)のような神様なのです。1万タラントもの莫大な負債を無条件で、一方的な恵みで帳消しにしてくださる神様(マタイ18章23節~)なのです。
祈りましょう。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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