ヨハネの福音書 6章 41-51節
41. ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
42. 彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」
43. イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。
44. わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。
45. 預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。 父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。
46. 父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。
47. まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持って います。
48. わたしはいのちのパンです。
49. あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
50. しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
51. わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、 永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
礼拝メッセージ
2025年9月21日
ヨハネの福音書6章41-51節
「私たちを引き寄せる神」
「実は私は宇宙人です」または「僕アンパンマン」などと、私が真顔で言い始めたとしら、皆さんは、どう思われるでしょうか。ずっと変だと思っていたけど、ついにおかしくなってしまったか…と、恐くなって、私からそうっと離れていくでしょうか。
イエス様が約2000年前、「わたしは天から下って来たパンです」とお語りになった時、現場でそれを耳にした人たちの衝撃や混乱は、私が「実は宇宙人です」とか「私の正体はアンパンマンです」と真顔で言ったのと同じか、それ以上だったのではないかなと思うのです。
41. ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
42. 彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」
「えっー!目の前のただの人間イエスが、実は天から下って来た神の子、救い主だって。そんなはずはないよ。だって、あいつの父ちゃんのことも母ちゃんのことも、俺、良く知っているよ。あいつの出は、どこかだって分かっているよ」
「確かに、すごい奇跡は見せてもらったよ。パンも魚もたんまり頂いた。でもそれって、旧約聖書に出てくるモーセとかエリシャも与えてくれたよね」
「『わたしは預言者の一人です』って言うなら、『ああそうなのね』って納得するけれど、『天の神様のもとから下って来た』って、何て恐ろしいでたらめをいうのかしら。イエスって、自分のことをもしかしたら神様だって勘違いしているんじゃないの! 思い上がるにしても、ほどがあるわ。しかも人をよみがえらせるって言ったわよ。そんなこと出来るはずないじゃないの!」
イエス様のみことば、「わたしは天から下って来たパンです」を聞いた人たち。イエス様の正体(:本当に天から降って来られた神の子・キリストであられること)が、分からない多くの人たちは、そんなふうにひそひそ話をしたのです。
このひそひそ話を、新しい翻訳聖書『新改訳2017』は、「小声で文句を言う」と訳していますが、以前の新改訳聖書では「つぶやく」という単語が使われていました。日本語の「つぶやく」は、「小さい声でひとりごとを言う」という意味です。そこには「文句」とか「不平不満」といった意味は含まれておらず、聖書が伝えようとしている、私たち人間の、父なる神様へのまた御子イエス様への「思い上がった文句たらたら」(民数記11:1など)の意味が表れていません。また、「互いにつぶやく」(ヨハネ6:43、ヤコブ5:9)と、以前は訳していたのですが、「いっしょにひとりごとを言う」ということになり、「ひとりごとなのに、誰かと会話しているって、変だよね」という意見もあったのでしょう。「小声で文句を言う」に変わりました。
できていない親である私は、子どもと接している時、この「小声での文句」が耳に入って来て、イラっとしてしまう瞬間があります。面と向かってはっきりと「いやならいや」と主張してくれれば良いのですが、ぼそっと「めんどくせえ」、「つまんねえ」と言う小声が聞こえしまい、「なんでそんなことを言うんだ!」と逆切れしてしまいます。
地区の総会とかPTAの会議とかでも、よく見かける光景ではないでしょうか。手を挙げて、堂々と反対意見を述べるのではなく、後ろの方の席で隣の人と、文句を言い合っている。ひそひそ話しているようで、実際には周りに聞こえているのです。
そんなひそひそ話を聞いたイエス様は、「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい」とさとされます。疑問や不平不満があるなら、はっきりと私の前で言いなさいと。
私たちも、2000年前にユダヤ人の一人として、実際にイエス様を目の前にしたら、「そんなはずはない」、「おかしなことを言う危険な人だ」と、イエス様のことを正しく理解できず、文句ばかり垂れてしまうのではないかと思うのです。いかがでしょうか。
しかし感謝な事に、2025年の今、私たちはイエス様に対して、ぶつぶつ文句をいったり、不平不満を投げつけるのではなく、反対に今月のワーシップソングで歌っているように
「我らの主に向かって 新しい歌を歌おう 喜びの声をあげよ 主は我らの勝利 主は頼れるお方 イエスは主 イエスは王 この賛美もってほめたたえよ」
と、イエス様をほめたたえる者に、イエス様を「我が神・我が主・我がすべて」とイエス様を礼拝する者に今されているのです。
このことは決して当たり前のことではありません。驚くべきことです。本当にすばらしい神様からのプレゼント・恵みです。イエス様はそれが恵みだということを教えてくださっています。
44節 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。
自分で神様を引き寄せて、人間の側から「神様・仏様」と祀り上げて、礼拝しているのではありません。反対に、まことの神様の方が私たちを引き寄せてくださり、神様を知る者に、神様をほめたたる者へと私たちを教え、導いてくださっているのです。
この「引き寄せる」という単語は、元々は強い表現なのだそうです。引きずってでも連れていくとか、網を引き上げるといった意味があるそうです。重たいものを引っ張り上げていくような動詞です。
父なる神が、私たちをイエス様のところへと引き寄せてくださる。導いてくださっているのです。神様が私たちの心の内に働きかけてくださっているので、神様が語りかけてくださっているので、聖霊が私たちの内に住んでくださるので、私たちは今日もイエス様のみもとに、イエス様を礼拝するこの教会の礼拝に引き寄せられて来たのです。この事実をいつも覚えていきましょう。この神様の恵みに感謝し続けて生きましょう。
繰り返します。私たちが「この神様にしよう、イエス様にしよう、キリスト教に入ろう」と選んだのではありません。もちろん初めて教会に行った時、また洗礼を受けてクリスチャンになった時、私の選択・意志・決断があったのも事実です。けれどもそのすべての背後に、あなたの心の動きすべてに、引き寄せてくださる神様の導きがあり、神様の選びがあったのだということを覚えておきたいのです。
罪の中に沈み、霊的に(神様との関係が)完全に死んでいたような状態の私でした。自分の意思や知識、能力などによっては、イエス様の赦しと新しいいのちにたどり着くことなど不可能でした。そんな私に対して、神様は人間には抵抗できないような力でもって、私をご自身のもとに・御救いへと引き寄せてくださったのです。
支配的に暴力的に、強引に、神様は私たちを引き寄せることはなさいません。そうではなくて、愛しているので、私たちを引き寄せてくださるのです。例えて言えば、歩き始めたばかりの小さな子どもと一緒に散歩をする親のようです。ふらふらと車道に出てしまいそうな子どもを、親は放ってはおきません。腕や手をつかんで、無理にでも安全なところに引き寄せます。それは子どもを愛しているからです。その子の命を守りたいからです。
ヨハネの福音書6:37 「父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」
先ほど交読したホセア書11章に示されている「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(11:8)と語ってくださる神様の 真実なご愛ゆえに、私たちは引き寄せて頂いています。
私たちをイエス様のもとに引き寄せるために、父なる神様は、私たちに教えてくださいます。イエス様のことを教えてくださいます。聖書の預言を通して。そしてイエス様ご自身のみことばと行動を通して、私たちは「イエス様こそ我が神・我が主・我が救い主である」ことを知るのです。
45節、預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。
この預言者の言葉とは、イザヤ書54:13の「あなたの子たちはみな、主によって教えられ、あなたの子たちには豊かな平安がある」です。
神様は、私たちをいのちのパンのもとに引き寄せてくださいます。このパン(イエス様の御体)が、私たちの身代わりに引き千切られた(十字架の死)ことによって、私の罪の刑罰はすべて肩代わりされたのです。私たちはただただこの救いを神様から教えられ、導かれて、信じるのです。信じることでしか救われ得ない私たちです。
それなのに、せっかく、この御救いへと神様から引き寄せて頂いたのに、私たちはなおも身勝手に行動しようとします。引き寄せてくださるお方から、離れていこうとするのです。そんな私たちだからこそ、毎週日曜日ごとに、また毎日朝ごとに・夕ごとに、神様から教えられ続けて生きたいのです。「わたしがあなたの神だ。あなたを愛している」という神様のみことばを聴き続けていきましょう。
文句を言ってばかりの人生から、神様へ感謝をし続けていく人生へ
不平不満なかりの人生から、 神様を賛美する人生へ引き上げて頂きましょう。
疑ってばかりの不信仰な心から、子どのように神様に身も心もお任せしていく信仰を与えられていきましょう。
疑いから確信へ
死からいのちへ
永遠のいのちへ ほろびから救いへ
絶望の中から希望の光へと
お墓の奥底から天の御国の歓喜の祝宴へと引き上げて頂きましょう。
引き上げ、引き寄せてくださる神様の愛を教えられ続けていきましょう、そして、信じ続けて歩んで行きたいと願います。
6章47-51節
47. まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持って います。
48. わたしはいのちのパンです。
49. あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
50. しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
51. わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、 永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。
祈りましょう。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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