「これはひどい話だ」

ヨハネの福音書 6章 53-71節 
 53. イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 
54. わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 
55. わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
 56. わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。 
57. 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。 
58. これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」 
59. これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。 
60. これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」 
61. しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。 
62. それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。 
63. いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。 
64. けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。 
65. そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」 
66. こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。 
67. それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。 
68. すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
69. 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」 
70. イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」 
71. イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。 



礼拝メッセージ 

2025年9月28日 

ヨハネの福音書6章53-71節

 「これはひどい話だ」 


 私は、まずこの朝、皆さんに心からの感謝と敬意を表したいです。今日のメッセージのタイトルを知った上で、この礼拝に集ってくださったならば、本当にありがとうございます。皆さんはまれな方たちだと思います。普通、お金や時間をかけて、誰かのお話を聴きに行くとしたら、ためになる話・良い話・感動的な話・面白い話を求めて、出かけるはずです。どこかの会場で開催される講演会に行くとしても、「本当につまらない話です」、「聞くにたえない講演です」、「どうしようもないほど、ひどい内容の話です」といったタイトルの講演会には、行きたいとは思われないでしょう。 

 けれども驚くことに、あの主イエス様がお話しをなさった時、弟子としてイエス様に従って来たはずの多くの人たちが、こう言い放ったのです。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(ヨハネの福音書6章60節) 

 いったいイエス様は、何を語ってしまったのでしょうか!? 失言や暴言などを口にされたわけではないでしょうが、直前のイエス様の発言は、こうです。 

ヨハネの福音書6章53、54節  
「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

 確かにこれは「ひどい話」です。グロテスクで恐ろしい表現です。人の肉を食べ、人の血を飲むなんて、とても出来ることではありません。文字通りそのままとれば、とても受け入れることはできません。弟子であっても思わず「なんて難しい話だ、さっぱりわけが分からない」とブーブー文句を垂れるほどでした。この言葉につまずいた多くの弟子たちが、ここでイエス様のもとから離れ去っていってしまいます。 

66節 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。

 「心が満たされるようなお話や経験を、また将来に向けて役立つ知恵やお話を求めて、イエスについて来たのに、全く期待外れだった…。イエスは変になって、おかしなことを言い始めたぞ。危ない。早くこの人から離れよう」と、弟子たちまでもが、イエス様から離れて行ったのです。  

実は、私たちクリスチャンは、またキリスト教会は一見すると、常識的に考えると「ひどい話」を宣べ伝え、実践して来ました。「良い話やためになる話」ではなくて、「ひどい話」なのです。 ― 全く罪の無い完全に聖い人が、ねたまれ、憎まれ、殺されたという不合理・不条理な話です。作り話ではなく、歴史上本当に起きてしまった悲劇です。しかも人類が考え出した最も残酷な死刑の方法:十字架で殺されたという恐ろしい話なのです。さらにその死は、私たち罪ある人間の身代わりに課せられた神の罰だというのです。 ― その死を記念し、忘れないようにと、教会は2,000年間、キリストのからだであるパンを裂き、食し続け、キリストの血であるぶどう酒を飲み続けているのです。来週の日曜日、この聖餐式に私たちはあずかります。 

 また身代わりは、この世の法律では「ひどい話」で、あってはならないことです。交通事故や犯罪行為が起きてしまった際、その罪を「自分が犯しました…」と偽って、親族や誰かが身代わりに警察に出頭するとします。それは美談ではなく、犯罪行為と見なされるのだそうです。警察の捜査を混乱させ、真犯人を隠したという罪状で犯人隠避の罪が、身代わりの人に科されるのです。 

 もう一つ、「身代わり」ということを中学校の国語の教科書から考えてみましょう。太宰治が書いた『走れメロス』が、国語の教科書に採用されていますが、もしもこんなストーリーで結末を迎えたとしたら、どうでしょうか? 

 メロスは決められた日の日没までに都にたどり着かなかった。身代わりを申し出てくれた友人セリヌンティウスの命は暴君によってむごたらしく奪われた。けれども、メロスは友人の命を犠牲にしても、その後、平気な顔でのうのうと幸せに暮らしましたとさ… 

 私の作り話ですが、これでは国語の教科書に載せられないでしょう。教科書検定で「教育的ではない」と不採用になるのではないでしょうか。太宰はこう記しています。メロスは身代わりを申し出てくれた友人の愛と信頼に応えるために、命がけで走って行った。セリヌンティウスもメロスが必ず約束を守ると信じて、待ち続ける。 そして日没ぎりぎりのタイミングで感動の再会。ついにあの暴君も二人の真実な友情に感激し、メロスもセリヌンティウスも二人とも釈放する。めでたし!めでたし!の感動的なお話しです。 

 しかし、どうでしょうか? 私たちが生きているこの社会は、『走れメロス』の感動的最後のような出来事ばかりではなく、ひどいこと・理不尽なこと・不条理なことの多い世の中ではないでしょうか? 力を持つ人や富を独占する人が、弱い人や貧しい人たちに犠牲を強いて、良い思いをしている。そんな現実を見て、「ひどいなあ、何とかならんのか!」と批判している私自身も実は、誰かを犠牲にし、誰かを利用し、誰かに大変な仕事を押し付けている。それで自分だけ楽をし、豊かで快適な生活を続けようとしているのではないでしょうか? 

主イエス・キリストは、なぜ「ひどい殺され方」をされなければならかったのか? どうして「むごたらしい殺され方」をされなければならなかったのか? それは私たちたちが築いてきた社会が「ひどい社会」だからです。私たち自身が「ひどい人間だからです」。いい人のなりをしながら、心の中は冷酷無慈悲です。「優しい人だね」と言われていても、胸の奥には残虐な思いが潜んでいます。人のために尽くしているようでいながら、どこまでも利己的でひどい人間です。 

 主イエス様が、あそこまでムチで打たれ続け、心身ぼろぼろになった上で、重い十字架をかつがされ、侮辱され、馬鹿にされ、唾をかけられて、そしてゴルゴダの丘で両手両足に恐ろしい釘を打ち込まれた。残虐極まりない主の十字架です。「もう、いいです。止めてください。イエス様そこまで痛めつけられないでください。それ以上、苦しまないでください」と叫びたくなります。でも、その時知るのです。私の罪が、イエス様をあそこまで苦しめているのだと…私の汚さが・私の陰湿さが、主を死に追いやった…のです。 だからこそ、私たちは主の肉を食べ、主の血を飲み続けていくのです。肉を食べ、血を飲むとは、自分の全存在をかけて、このお方を信頼することです。イエス様に私の血となり肉となって頂くことです。  

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」ガラテヤ2:19,20  

この「ひどい話」を「福音・良き知らせ」だと信じられるか? 2,000年前、あの大伝道者パウロ先生もそのことを否定され、馬鹿にされました。先ほど交読した第一コリント1章18節から、 

18. 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。 
21. ― それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
22. ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。 
23. しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、 

 パウロが語った福音(=イエス様の十字架の死と復活)は、万人に受け容れられはしませんでした。多くのユダヤ人は猛反発し、多くのギリシア人は馬鹿にしました。 イエス様から直接、十字架のことを聞かされた人たちも「これはひどい話だ、バカバカしい」と言って、イエス様から離れて行きました。

それでも残った12弟子にイエス様は問いかけます。 

ヨハネの福音書6章67節 
それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。 

 イエス様のこのことばは、一人一人の心の奥深くに触れる問いかけでした。あなたも「こんなひどい話は、一円の得にもならないと去っていくのか? それとも、あなたは、このひどい話を真実な知らせと信じるのか?」 主イエス様はこの朝、あなたにも、そう問いかけてくださっています。  

その時、弟子の一人シモン・ペテロが答えました。

 68.  - 「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。 
69. 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」   

「主イエス様、あなたが語られることは、ひどい話などでは決してありません。あなたは、永遠のいのちのことばを確かに語ってくださっています。私たちはこれまでも、今も、そしてこれからも、あなたのみことばによって生かされいきます」と、ペテロは告白したのです。イエス様は、この信仰告白をどれほど喜ばれたことでしょうか! 

 クリスチャンは、イエス様のメッセージを「ひどい話」ではなくて、「素晴らしい救いの知らせ・良き知らせ」だと発見させられ、心底感動し、信じています。63節「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」と、イエス様がおっしゃたように、それは、人間的な知恵や思いによってではなく、助け主なる聖霊のお働きによってのみ分かることです。私たちの内に働きかけてくださっている御霊によって、イエス様のメッセージは、今、私にとって「ひどい話」ではなく、「Amazing Grace How Sweet the Sound:驚くべき神の恵み、なんと甘美な響き♪」となっているのです!

私の内に働きかけてくださり、霊的感動を与え、主イエス様を救い主と信じる信仰へと導いてくださる助け主、私たちを日々導いてくださる聖霊のお働きを待ち望みながら、また聖霊の導きに身を委ねながら、これからも歩んでまいりましょう。   

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