「神の教えと人の教え」

ヨハネの福音書 7章 14-24節 
 14. 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。 
15. ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」 
16. そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。 
17. だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。 
18. 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。 
19. モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」 
20. 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」 
21. イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。 
22. モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。 
23. モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。 
24. うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」 

礼拝メッセージ

2025年10月12日

 ヨハネの福音書7章14-24節
 「神の教えと人の教え」 


今、イスラエルではちょうど仮庵(かりいお)の祭りの時期だそうです。今年は10月6日~13日までが祭りの期間と「新生宣教団」のホームページ に紹介されていました。 

今日のみことばは、約2000年前の仮庵の祭り - その8日間の祭りの半ば過ぎに、主イエス様が語られたことと、それに対する周囲の批判や敵対的反応が記されています。

 「イエスを殺そうとしていた」(7:1、19、25)という表現も繰り返し出て来て、不気味な足音が近付いています。 

 8日間に渡る仮庵の祭りです。出エジプトをした際、ちゃんとした家ではなくて、荒野でキャンプ生活をしていた。その時のことを思い出そうと、枝や葉っぱで仮庵=ほったて小屋を作って、そこに入って食事をしたりしながら、過去を追体験するお祭りです。ユダヤ人は、ずっと現代に至るまで、この仮庵の祭りを祝っています。 

 レビ記23章 
33. 主はモーセにこう告げられた。 
34. 「イスラエルの子らに告げよ。この第七の月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。 

 42. あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。 
43. これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」 

 イエス様が地上におられた時、都エルサレムに国中・世界中から大群衆が押し寄せ、祭りが盛大に祝われていました。宗教的祭りです。神殿では律法に定められた大量の数の家畜がいけにえとしてささげられていたでしょう(レビ記23:36―38)。宗教意識が高揚する一週間。皆の心が神様に向かい、神様のみことばとみわざを求めていく一週間にイエス様は神殿のあるエルサレムに、最初はお忍びで入られますが、祭りが中盤に差し掛かった時、黙っていられず、神殿で教え始められたのです。 

ヨハネ7章14節 
祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。 

 どのような内容だったのでしょうか? 何を語られたのでしょうか? ヨハネの福音書は、この時のイエス様のメッセージの内容は記していません。けれども、それを聞いた人々の驚きの反応は記しています。続く7章15節

ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」 

 ユダヤ教のラビ=聖書の専門家、パリサイ派の先生に付いたわけでもないのに、「イエスの豊かな深い聖書知識はいったいどこから来たのか!?」と驚いたのです。他の福音書でも、 

イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。(マタイ7:28,29) 
 人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。(ルカ4:32) 

 イエス様は、「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」という 人々の疑問に、また「あなたの語ることばの権威は、どこから来ているのですか?」という問いに答えられます。 

 「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。(16-18節)

 当時のパリサイ派は、「年長者を敬い、何事であれ年長者が始めた事に対立するような大それたことはしないようにする」ことを大事にしていました。彼らは、決して「自分はこう思う」という新しい説をとなえたりしませんでした。先輩や偉い先生の言葉を引用しながら、結局のところ、自分の説を権威付けようとしたのです。  

イエス様は、「あなた方にも先輩教師や師匠がいるように、わたしにも真の教師がおられる。そのお方こそ天の父なる神。わたしはこのお方から聞いたことをあなたがたに語っているのです。それがわたしのメッセージが真実であることの根拠であり、権威の源だ」とのお答えになったのです。    

また自分の新しいアイデアや新しい発見を一生懸命、宣伝する人は、自分の名前が知れ渡り、栄誉を得ることを望むでしょう。そのためならば、実験結果に不正を加えたり、データを改ざんしたりしてしまいたくなる誘惑が伴うでしょう。自分や会社の利益のために、そうした不正に手を染めてしまう人もいます。しかし、主イエス様はご自身の栄誉や名声のためにではなく、天の父のみこころを実現するために、この地上に降って来られ、私たちに語りかけ、行動してくださったのです。それゆえに、イエス様には、うそ偽りなど存在しないのです。  

そして神の真実なことばを、神からのものとその権威を認めようとしない聞き手の側に問題があるのだと、指摘されるのです。イエス様を否定し、その語られることに逐一反発するあなたがたにこそ問題があるのだ!と。 そのことの実例を二つ挙げていかれます。 

 1. 十戒の「殺してはならない」を自ら犯そうとする宗教家たちの罪を指摘されます。 

 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」(19節)  

イエス様の命を奪おうと企むユダヤの指導者や宗教家たち、「あなた方は神の戒めを破っている」と指摘されるのです。十戒に「殺してはならない」とあるではないか。それなのに、あなたがたは、罪のない人を、神の子であるわたしをなぜ殺そうとするのか!?と。

 2. さらに「安息日規定違反」をあげつらう宗教家たちの矛盾を突かれます。

 イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。(21-23節) 

 イスラエルの男子は、生まれて8日後(日本の数え方ですと7日後)に割礼を受けることが律法に定められていました(レビ記12:1-3)。一週間前の安息日(土曜日)に生まれた男の子は、一週間後の安息日に割礼を施されていたのです。ユダヤの宗教家たちは、「安息日に割礼を施すこと」(ある意味、医療行為)をしている。そうでありながら、どうしてイエス様が38年間寝たきりで苦しんでいた男を癒し、立ち上がらせ、床を持ち上げさせたこと(ヨハネ5章)を「労働をうながし、安息日規定に背かせた」と言って、不正行為だとあげつらうのか!(8:21-24)と反論されるのです。 

安息日において「割礼執行」が許可されているなら、なおさら全人格・全存在のいやし・回復・救いをもたらすことは許されていること、いやなすべきわざだと、イエス様は指摘されるのです。 

 あなたがたは、人の教え・考え・悪いたくらみに支配され、神の教えをおざなりにしていると言われるのです。

神の教えは、聖書が伝える神様の約束・絶対的な教えです。人のあるべき姿・生き方が書かれています。でも、それが実行できない罪をもった私たち人間の姿も、聖書は繰り返し教えています。 そのようなどうしようもない人間を救うためにイエス・キリストは来られ、十字架で罪の赦し・救いを成就し、よみがえられることをイエス様は前もって教えてくださいました。  

私たちもこのキリストの救いにあずかり、よみがえりのいのち・新しいいのちにあずかることができる、それが神の教えです。 

 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」(24節) 

 うわべだけ、表面的なものしか取り扱わない教えではありません。あなたの全存在 =心も、たましいも、身体も、あなたの人生もすべてを取り扱ってくださる神様の愛と真実に満ちた教えです。 

 それに対して、人の教えは人間の内側から出てくる言葉・考えです。聖書の教え・神の教えを、人間の都合の良いように解釈し、適用する教えです。神の正義ではなくて、ひとりよがりな私の正義を主張する教えです。神様の栄光を求めるのではなくて、「良いことを言うね。立派な考えだね。すごい言葉だね」と人が評価され、ほめられることを期待する 自分の栄光を求めてしまう教えです。神の教えを薄めたり、必要以上に濃くしたり、時にまったく違う味にしてしまって、それを自分も食べ、人にも「これが神の教えだ」と言って教えたり、勧めたり、押し付けてしまうのです。 

 主イエス様の厳しい指摘です。

マタイの福音書15章7-9節、
 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」 

 先ほど交読したイザヤ書55章8節にあったように、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。─主のことば─」 を、いつも忘れないようにしたいと思います。いつもわきまえておきたいと願います。 

自分勝手な判断をしてしまいやすい私たちです。この世の常識・考え方、人の教えにとらわれやすい私たちです。神様のことばをいつも聴き、その教えを慕い求め、慎重に神様のみこころを尋ね求めていきましょう。 

 ダビデはこのように歌い、祈っています。 

 詩篇25篇 
4. 主よ あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。 
5. あなたの真理に私を導き 教えてください。あなたこそ 私の救いの神 私は あなたを一日中待ち望みます。 

 8. 主は いつくしみ深く正しくあられます。 それゆえ 罪人に道をお教えになります。 
 9. 主は貧しい者を正義に歩ませ 貧しい者にご自分の道をお教えになります。 
10. 主の道はみな恵みとまことです。主の契約とさとしを守る者には。 
11. 主よ あなたの御名のゆえに 私の咎をお赦しください。それは大きいのです。 
 12. 主を恐れる人は だれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。 
13. その人のたましいは 幸せの中に宿り その子孫は地を受け継ぐ。 
14. 主は ご自分を恐れる者と親しく交わり その契約を彼らにお知らせになる。 
15. 私の目はいつも主に向かう。主が私の足を罠から引き出してくださるから。 

 祈りましょう。



 

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