「渇いている人よ」

ヨハネの福音書 7章 37-52節 
 37. さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 
38. わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 
39. イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。 
40. このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。 
41. 別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。 
42. キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」 
43. こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。 
44. 彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。 
45. さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」 
46. 下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」 
47. そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。 
48. 議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。 
49. それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」 
50. 彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。 
51. 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」 
52. 彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」 



礼拝メッセージ 

2025年10月19日 

ヨハネの福音書7章37-52節

「渇いている人よ」  


雨がよく降ってくれて、水が豊富な地に住む私たちとは違い、聖書の舞台イスラエルは乾季になれば雨が一滴も降りません。川から水が無くなります。毎年秋の仮庵の祭りの最終日には、みんなの目が「水」に注目するイベントが行われたそうです。大行列が、エルサレム神殿からシロアムの池へと向かって行きます。先頭には神殿の♪音楽隊によるトランペットの高らかな音色が響き渡り、その後を白い式服を来た祭司たちが行進します。そして巡礼者や見物客が後に続きます。 祭司たちは、シロアムの池でめいめい黄金の器に水を汲み、神殿に帰ると、聖所のいけにえをささげる祭壇に、くんで来た水を注ぐのだそうです。水が注がれている時、レビ人の合唱団が、イザヤ書12章3節「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から」のみことばを荘厳に歌っていました。先ほど交読したみことばです。 

 ちなみに日本の小学校で、よくみんなで踊っているフォークダンスの「マイム・マイム」は、イザヤ書12章3節のみことばがもとになっているそうです。歌の中の「マイム」はヘブル語で「水」のこと。「ベサソン」は「喜びのうちに」の意味だそうです。

 出エジプトをした際、全く水の無い荒野にあっても、神様が苦い水を飲めるようにしてくださったり(出エジプト記15:25)、泉のほとりに導いてくださったりしました(15:27)。また岩から水を出してくださいました(17:6)。いのちの水=生きるために必要不可欠な水を与えてくださったことを思い起こし、いのちの主に感謝する儀式であったでしょう。しかし次第に、この儀式は「雨乞い」のような要素が加わったと語る解説者もいます。 

 雨が一滴も降らないことに大きな不安を感じ、飲み水が枯渇することの恐怖を何度も体験し、生きるために水が絶対に必要だと日々自覚しているイスラエルの人だからこそ、水を求めて、祈りをささげ、祭壇に水を注ぐ儀式を行ったのでしょう。 

 ラッパの音色と聖歌隊の合唱と、祭りに押し寄せてきた人々の熱気が交差し合い、興奮のるつぼと化したエルサレムで、イエス様は立ち上がって大声で訴えます。 

7章37節 
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 

 このイエス様の声を通して、私たち自身も、実は渇いているのだということに気付いていきましょう。心が満たされていないことを正直に認めましょう。たましいが渇いていることにちゃんと気づきましょう。

 仮庵の祭りのクライマックスで、宗教的高揚を味わっている人々に、イエス様は「だれでも渇いているなら」と呼びかけたのです。 ― 「周りの興奮に合わせて、自分も満たされているように今は感じているよね。でも、これからそれぞれ地元に帰っていく。今日の感動・今日の感激は、次第に薄れていくよ。ずっと満たされたまま、生きることは出来ないんだよ。もしかしたら、今この瞬間もそんなむなしさを、渇きを感じているかもしれない。祭りの興奮をどこか冷めた目で見ている自分がいる。こんなことやっても、むなしいなあ、意味ないなあと感じているかもしれない。」 「または、自分の肉体の限界、病んで衰えていく体を見つめながら、仮庵の祭りを祝いにエルサレムまで上って来られるのも、今年で最後だと感じている人もいる。これで終わりか…という虚しさ、寂しさを感じているかもしれない。」 「霊的に枯渇している、信仰が弱まっている、そんな風に感じているなら、まず、わたしのところに来なさい、わたしから飲みなさい」 

 イエス様はこの朝も、私たちにそう呼びかけてくださっています。私たちをご自身のみもとに招いてくださっています。だからこそ、私たちは毎週日曜日、イエス様のこの招きに応えて、キリストのからだなる教会の礼拝に集うのです。そして毎日、イエス様のみことばを慕い求めるのです。イエス様と対話すること、神様に祈ることをしていきたいのです。 

 「来なさい、飲みなさい」と招いてくださるイエス様は、続けて約束してくださいます。 

7章38節、
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 

  「わたしの所に来なさい、わたしから飲みなさい」と招いてくだるイエス様ですが同時に、そうすれば、あなたの心の奥底から生ける水が、いのちの水が流れ出てくると語られます。  

これはまるで「呼び水」の原理のようです。水道から出て来る水を使う生活しかしていませんので、実際に体験したことはないのですが、ポンプ式井戸の調子が悪くなり、水を汲み上げられなくなった時、上からポンプに呼び水という水を注ぐと、また地下深くから水が上がって来ると聞いたことがあります。  

イエス様からいのちのみことばを頂く時に、それが「呼び水」となって、私たちの内側からいのちの水が川のようにあふれ出てくると言うのです。   

私たちはのどが渇いている時、外からの刺激によって、その渇きを満たそうとします。お水やお茶、ジュースなどで。そして内面の渇きも同じようにして解決できると考えます。精神的に疲れ切っている時、心が渇いているなあと感じるとき、むなしさや孤独・不安・寂しさ、たましいの渇き、霊的な渇きも、同じように、外からのもので、外からの刺激で満たそうとしてしまうのではないでしょうか。 ― 癒し系の音楽、癒し系の香り、お笑い動画、涙そそられる感動的な映画やドラマ、夢中になれる小説、好きなゲーム、ちょっと豪華なスイーツなど ― で精神的充足を得ようとします。  

でもイエス様はおっしゃるのです。あなたの内側からいのちの水があふれ出て来て、あなたと周りの人たちを潤していくと。 ヨハネ4章で、サマリアの女性にもイエス様は同じように語りかけていました。

「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:13,14)

  「えっ、イエス様…。私は渇いているんですよ、渇き切っているんですよ。自分の内側から良いものなんて何も出て来ませんよ…」。そう反論したくなるかも知れません。でも聖書は言うのです。

7章39節
 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。  

あなたの心の奥底から出て来るいのちの水とは、聖霊なる神様なのです。  

この仮庵の祭りの時点では、イエス様を信じる者にまだ御霊は下っていなかった。けれども、イエス様が栄光を受けられた後には、クリスチャンたちが御霊を受け取っていく。これはどういうことでしょうか?   

イエス様が、これから十字架で死なれ私たちのために救いを完成され、三日後に復活されて永遠のいのちの確かな保証となられる。そして天に昇られ、父なる神様から「息子よ、良くやった!」と栄光をお受けになられます。その後、あのペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれるのです。その日からキリストを信じる全ての人に、聖霊が注がれていくのです。 

コリント人への手紙 第一 6章19節  
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。 

「あなたがたは聖霊の宮」なのです。私の内に助け主・慰め主なる聖霊が住んでくださっています。 たましいが渇いている時、イエス様のもとにかけこみましょう。みことばを頂きましょう。そのみことばを心の奥深くで思い巡らしましょう。自分自身の内面としっかり向き合いましょう。そこに助け主なる聖霊が働いてくださっていること。内側から私を潤し、満たし、導き、生かしてくださることを体験していきましょう。 

 そのことを実際に行ったのが、今日のみことばの最後に登場するあのニコデモです。 群衆は、祭りのフィナーレでのイエス様の大声での演説を聞き、賛否両論の批評を好き勝手に下しました。

40-49節

  •  「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たち 
  •  別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。
  •  しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」
  • 彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいた
  • 下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」
  • イエスを尊敬するようになった群衆を見て、祭司長やパリサイ人は、「惑わされている…。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている」と見下した。 

 このように様々な評価に別れ、「こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた」(43節)と聖書は記すのです。  

議員たちやパリサイ人が、「イエスはけしからん!安息日規定はじめ律法に背き、背かせようとする不届き者・危険分子だ。逮捕して痛めつけてやれ」と糾弾する中にあって、議員の一人であり、パリサイ派の教師であったあのニコデモだけは、何とかしてイエス様の身を守ろうと奔走します。

50,51節
 彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」 

 怒りにまかせて判断・行動してはいけません。人づての情報ではなくて、第三者の勝手な評価ではなくて、実際にイエス本人から話を聞いた上で、評価を下すべきではないですか。冷静になってくださいと、議員仲間たちをさとすのです。 

 それは、実際にニコデモがあの晩、イエス様のもとを訪ね、イエス様本人から話を聞いていたからです(3章)。人づての評価ではなくて、直接会って、このお方は素晴らしいと確認していたのです。 

 ニコデモは、自分の心が・たましいが渇いている。満たされていないと、認識していました。律法の教師でありながら、救いの確信・永遠のいのちの確信がありませんでした。不安でした。教師としてのプライドをかなぐり捨てて、イエス様のもとに行ったのです。 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と招いてくださっているイエス様のもとに行ったのです。 

 私たちもニコデモの姿勢にならっていきたいと思います。今日もまた明日も、「私は渇いています」、「渇き切っています」、「うるおしてください、満たしてください」とイエス様のもとに駆け込んでいきましょう。 

 祈ります。

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