ヨハネの福音書 8章 12-20節
12. イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
13. すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」
14. イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。
15. あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。
16. たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。
17. あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。
18. わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」
19. すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
20. イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
礼拝メッセージ
2025年10月26日
ヨハネの福音書8章12-20節
「世の光なるキリスト」
先週日曜日の礼拝では、ヨハネの福音書7章52節までのみことばを見ました。そして今朝は、8章12節からです。「その間の7章53節から8章11節まで、どうして飛ばしているのかな?」と思われたかもしれません。内容は姦淫の現場で捕らえられ、告発されている女性を、イエス様が救い出してくださった出来事です。このみことばは、昨年8月4日の礼拝で「さばきを下さないキリスト」という題のメッセージで取り扱いましたので、教会ホームページに掲載しているその日の原稿を見つけて、お読み頂ければ、感謝です。
また、同時に今日のメッセージの中でも、姦淫の女性に注がれたイエス様の赦しの光・愛の光・いのちの光についても、ともに見つめていきたいと思います。
高速道路などで大変長いトンネルを走っていますと、「本当に出口があるのだろうか?」と不安な気持ちになります。しかし前方に、小さくても出口の光が見えて来ますと、安心します。
人生でも長くて苦しかったトンネルだった。暗闇に覆われていたと感じたことがあったでしょうか? また自分自身の心の中に巣食っている闇が大きく見えてしまうことがあるでしょうか? しかしその先に、ほんの小さな光が差し込んで来た。「出口だ!ああ良かった。もう大丈夫だ」と安心した。これまで、そんな経験をなさったことがあるでしょうか?
イエス様は、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(8:12)と語ってくださいました。
「いのちの光」とは何でしょうか? 救い主イエス様は私たちを天国へと、そこでの永遠のいのちへと確実に引き上げてくださるお方です。この希望の光です。また同時に今この世界で私たちが生きていける力、生きていきたいと思う心ではないでしょうか? ときに「ああ、どうして、こんなにも弱くて,どうしようもない私なのか…」と落胆し、自分自身や人生を否定的にとらえてしまうことのある私たちです。けれども「いのちの光」が差し込んで来る時、「こんな私でも、生きて良いんだ」と心底実感できる。いや「こんな私だからこそ、いのちの主であるイエス様にすがって、イエス様と共に生きて行こう!」と一歩踏み出せる、それが「いのちの光」ではないでしょうか。
反対に「闇の力」は強くて恐ろしいものです。死に引き込まれていく力です。「死にたい…」、「早くこの世から消え去りたい…」と心に沸いてくる恐ろしい考えです。生きるのがつらくて苦しくて、あまりにも重いものを背負わされているようで、悲しくて、ぼろぼろに傷付けられているようで、闇の力に支配されそうになっている。
あの姦淫の女性も、闇の力に飲み込まれそうになっていました。8章3節から、
3. すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4. イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
5. モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
「姦淫の現場で」とあります。もしかしたら不倫の現場であったかもしれません。現場を押さえられ、見世物のように、公衆の面前に引きずり出された女性がいました。神のおきてでは、「これこれのことをした者は石打ちの刑にせよ」と定められていますと宗教指導者は彼女を告発します。 恐かったでしょう…、恥ずかしかったでしょう…。悔しかったかもしれません。「なんで私だけが、相手の男はどうして逮捕されないのか」と! また同時に、「ああ、私はなんて馬鹿なことをしてしまったんだろう…」悔やんでも悔やみきれませんでした。自分が惨めでした。「早くここから逃げ出したい、いやもうこの世界から消え去りたい、死にたい」とまで思ったかもしれません。彼女は闇の力に吸い込まれそうでした。
しかし、彼女を利用してイエスを告発してやろうと迫って来た宗教指導者たちは、イエス様の「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」(8:7)という威厳に満ちた声を聴いたとき、一人また一人と、全員がその場から立ち去ったのです。その後で、イエス様は彼女に語りかけてくださいました。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(8:11) 「あなたをさばかない」とイエス様は言ってくださいました。そして、ここから新しい人生へと踏み出しなさい。同じような罪を繰り返して、破滅に向かってはいけない。これからは神様と新しいいのちを生きなさいと、立ち上がらせてくださったのです。彼女を覆っていた恐ろしい闇の力に、イエス様の光が差し込んで来たのです。それは死に引き寄せる力ではなくて、いのちを与える光でした。
私たちにも、私たちの人生にも、この「いのちの光」が必要です。絶対に必要です。この光は、イエス・キリストというお方に心触れられる時に、イエス・キリストというお方を知る時に注がれるものです。
8章20節
イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
この礼拝堂の前方には、献金のかごが置かれていますが、それよりも、屋外にある神社やお寺のおさい銭箱をイメージしてみてください。参拝者がちゃりんとおさい銭を投げ込んで、願い事や祈りをしている。そのさい銭箱のすぐ隣に目を転じると、国会議事堂とか、刑事ドラマに出てくる警視庁のビルとか検察庁があると想像してみてください。 イエス様が、「わたしが世の光です」と語っておられるのは、そんな場所でした。献金箱のそばに国の最高法院があったのです。そこは法律を作るだけでなく、その法律で人をさばくことも、逮捕することも、処罰することも行っていました。 イエス様に敵対し、イエス様を逮捕し、亡き者にしてやろうと企てていた最高法院の目の前で、まさに敵の真ん前に乗り込んで行って、イエス様は大胆に語り、議論されたのです。
この世の裁きは厳格です。ときにやり過ぎてしまう裁きがあるようにも感じます。過去の失敗・失言、若いころ馬鹿をやったこと、最近は、そういったことを全部ほじくり返されて、その人の業績やこれからの働きを否定するような時代になって来たことに恐怖を覚えます。もちろん謝罪や悔い改めは大事ですが、そこから再チャレンジ・再出発が許されない社会は恐ろしい社会です。
イエス様は言われます。
あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。(8:15)
ただ一人、完全に正しく、絶対的なさばきを下すことができるのは、神様だけです。その神ご自身が=イエス様ご自身が、だれをもさばかないと言われるのです。そして、さばくお方が、反対にさばかれていかれるのです。
しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。(8:20)
聖書のこの記述は、すぐ近い将来、イエス様に起こることを暗示しています。敵の陣営のど真ん中に乗り込んで行っても、まだこの時には、イエス様を逮捕することは出来なかった。まだ時が来ていなかったから。けれども、神が定められた時が来たら、その時に、イエス様は逮捕され、不当な裁判にかけられ、死刑判決を下され、ムチうたれ、あざけられ、罪の全くない聖なるお方が、あの十字架刑で殺されていくのです。
十字架上のイエス様の死は、「救い主、神の子」だと勝手に名乗り、実はそうではなかった負け犬の無残な死、ペテン師の悲しい結末では、決してありません。
反対に、神様が、あなたのために身代わりとなって死なれたのです。救い主イエス様は、あなたの罪を全部代わりに背負って、あなたが本来は受けなければならなかったさばきを、罪の罰を、呪いを、死を代わりに引き受けてくださったのです。 この十字架の死を心底理解し、感動し、信じ受け入れる人は、すべての罪を赦されるのです。このことが分かると、神様の愛・赦し・恵み・いつしくみが、心に迫って来ます。― それは、自分でがんばって知るというよりも、神様によって気づかせていただくのですが、 ― あなたのために、ご自身のいのちまでも差し出してくださるイエス様の愛を体験するときに、いのちの光がさしこんで来るのです 「こんな私でも生きていていいんだ 生きて行こう」という力が、希望が、与えられるのです。
そして「わたしは世の光です」と言われるイエス様は、同時に、私たちに向かって「あなたがたは世の光です」と呼びかけてくださっています。
マタイの福音書 5章
14. あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
15. また、明かりをともして升(ます)の下に置いたりはしません。燭台(しょくだい)の上に置きます。 そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
16, このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの 良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
いのちの光を頂いた私たちは、光の子です。それは、自分でがんばって光らせる光ではありません。光なるお方が心にいてくださるので、イエス様がともにいてくださるので、放つ輝き・光を、私たちは頂いています。先ほど交読した第Ⅱコリント4章のみことばのように、その光を隠すことなく、照らし輝かせていきたいのです。
イエス様は、「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく」と語っています。いのちの光を頂いた私たちは、闇の世界に逆戻りはしません。罪や悪、絶望や死に向かっていく歩みはしません。しかし、いのちの光をもって、闇の中にも飛び込んで行きたいのです。闇に光をもたらしたいのです。
光の存在が際立つのは、明るい昼間よりも真っ暗闇です。太陽の光がぎらぎらまぶしい真夏の日中よりも、北陸の長い冬:どんよりとした灰色の雨雲に覆われた寒空を打ち破る春の太陽の温かい光のありがたさを私たちは知っています。
世の光として生かされている私たち、昼間の明るい世界に生きる喜びを味わうと同時に、それで終わりではなく、いのちの光を闇の中に輝かせていきましょう。 もしかしたら、あなたのすぐそばに「死にたい」、「早くこの世から消え去りたい」と深く思い悩んでいる人がいるかもしれません。心が闇でいっぱいになっている方がいるかもしれません。その方に「今日も生きていてくれて良かった ありがとう」と伝えていきたいのです。「あなたの存在そのものが私にはうれしいんだ」と伝えていく者となっていければと願います。
祈りましょう。
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
キリスト教プロテスタントの教会です。 毎週日曜日の午前10時半から📖「礼拝」を、 毎週水曜日の午前10時半から🙏「聖書の学びとお祈りの会」を行っています。 クリスチャンではない方も、どの国の方でも、 👦 👧 👨 赤ちゃんからお年寄りまで 👩 👪 🙍 「礼拝」や「お祈りの会」にご自由にご参加いただけます。 🏡 家族のようなあたたかな教会 ♰ この町の教会 あなたの教会です。
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