2022年3月27日(日)
礼拝メッセージ
聖書:ヘブル人への手紙5章1―4節
タイトル「弱いから用いてくださる」
高橋宣広(福井中央キリスト教会)
おはようございます、そして初めまして。先週の24日木曜日に長野市から福井市に引っ越して参りました。皆様とともに、これから素晴らしい神様を礼拝し、ともに仕え合い、主イエス様の御救いを宣べ伝え、ともに主の教会を建て上げていけることを期待し、「よろしくお願いします」という思いで、今日の礼拝メッセージを語らせて頂きます。今日は、まず私自身を皆さんに知って頂きたく、証しを中心に語らせて頂きます。
10代後半頃、私は「牧師にだけはなりたくない」と考えていました。私は、新しく開拓された教会で牧師の子どもとして生まれました。静岡県の藤枝市という場所が私の出生地です。所属していたのは、聖化・聖めを重んじる教団でした。そして、私は生まれたときから、貧しさと様々な悩みを味あわされて来ました。
私の家族は、経済的に常に困窮を極めていました。家に電話もテレビもない時代があり、中学・高校の時には、いつも財布の中は空でした。高校時代、英語の辞書を買うために1週間、昼ご飯を抜いたことなど貧しさにまつわるエピソードにはこと欠きません。貧乏ゆえに、あきらめなければいけないこと、また貧乏ゆえに味わった恥ずかしさや惨めさがありました。 また牧師の子どもとしての悩みもありました。牧師の子どもなのだから、いつも「いい子」でいなければいけないというプレッシャーがありました。子ども時代、父とよくトラクト配布に出かけたのですが、ポストに近づくたびごとに、「誰も出てこないで」と願っていました。家の外に人がいると、恥ずかしさと恐ろしさでいっぱいになりしました。
子どもの頃は必死でしたので、イエス様のために、教会のために、父のためにと我慢し、がんばることができました。けれども18歳になって親元を離れ、一人暮らしを始めたとき、私はそんな自分の過去をどうやって受け止めたら良いのかと、苦しみました。私は、これからも過去に縛られて生きていかなければならない。もう明るい未来なんてありえないと考えました。
そのような「牧師だけは絶対になりたくない」と考えていた私が、今どうして牧師としての歩みをさせていただいているのか。恥ずかしいことばかりですが、お話しさせて頂きます。
先ほど申しましたように、私は牧師家庭で生まれ育ちましので、小さな頃から聖書のみことばに養われていました。私が小学校を卒業するまで、両親は牧師として働き、その後、牧師を辞任して、会社勤めをするようになりました。
小学校2年生の時、参加していたバイブルキャンプで、ある牧師夫人が個人的にカウンセリングをしてくださいました。「あなたは、自分の罪が分かりますか?」と問いかけられ、「ええと・・・、前、学校で友だちに誘われて、教室のチョークを泥棒しました。そして、道路に落書きをして帰りました」と話しました。それ以前にも、友だちを馬鹿にしたり、友だちを傷つけたりしていましたが、チョーク泥棒をしてしまったことが、初めて自分の罪を自覚した時でした。私は人の誘いに乗って悪いことをしてしまうことを知ったのです。
その翌年、小学校3年生の12月に、牧師であった父から「洗礼を受けないか?」と言われました。厳しかった父の言葉に逆らえなかった面もあります。さらにその年、教会では受洗者が一人も与えられていませんでしたので、辛かったであろう父の立場を理解して、洗礼を受ける決心をしました。自らの罪とイエス様の十字架によって救われることを、子どもなりに理解していましたが、救いを確信し、自らの意思で受けた洗礼ではありませんでした。
救いの確信が欠けていたために、その後、私は苦しみました。神様が求めておられる聖さと、そのようには生きることができない自らの汚れとの間で板ばさみになっていました。中学・高校時代、聖書を読んでいきますと、神様が私たち人間に聖さを求めておられることを知りました。たとえば、マタイの福音書5章27節、28節で、イエス様はこう語っておられます。 「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」 このみことばを読んだとき、本当に苦しかったです。思春期の時代を過ごされた皆様ならよくお分かりでしょう。罪を示され、悔い改めて、もう二度と罪を犯すまいと決心しても、罪を繰り返してしまう自分がいました。私は、悔い改めの祈りのたびに、自らの体を打ちたたいて、強い意志を持とうとしました。自分の意思で、自分の努力で聖くなろう、そして神様に認めていただこうと思いました。
その頃の私は、救いの確信はなく、反対に滅びの確信を持っていました。私は罪深い人間なので、今日、交通事故に遭って死んだら、天国には行けない、必ず地獄行きだと確信していました。その頃の私にとって、神様は絶えず私を監視し、私を裁こうと待ち構えている恐ろしいお方でした。私は神の恵みによって救われることを知らず、もがき苦しんでしました。
高校を卒業した私は、中高時代に過ごした九州の福岡を離れて、茨城の大学に進みました。親元を離れ一人暮らしを始めました。そこで、ここと同じ日本同盟基督教団の土浦めぐみ教会に導かれました。土浦めぐみ教会での教会生活を通して、私の信仰理解は大きく変えられました。礼拝でローマ人への手紙の連続メッセージが語られていました。ローマ人への手紙3章23、24節「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」このみことばを聴いたとき、私は神様の方から一方的に与えられる救い、受ける価値も資格も何も持っていない者に与えてくださる神の救いを知ったのです。もうすでに2,000年前に、イエス様の身代わりの死によって、私たちの救いは完成している。私は、自分の力で救いを得ようとしたり、聖い存在になろうと努力する必要はないのだ。ただ神様が与えようと備えてくださっている救いを受け取るだけでいいのだと気付かされたのです。
神様の恵みによる救いを知ってから、それを受け入れてから、私の生き方・考え方は大きく変えられていきました。窮屈だった人生から自由な人生へと変えられていきました。神のさばきを恐れて、びくびく怯えていた人生から、神様の愛と赦しに感動し、喜ぶ人生へと変えられました。
そして大学3年生になったとき、この福音を宣べ伝える者になりたいとの思いが与えられたのです。本当の意味で人を変え、本当の意味で人を生かす神様のみことばをとりつぐ伝道師、牧師になりたいという思いが与えられました。牧師にだけはなりたくないと考えていました。自分の子どもには、自分と同じような思いをさせたくないとも思っていました。しかし、なんと私は進みたくないと考えていた道に導かれたのです。
けれども人前で話すことや、人と関係を築くことが苦手で、牧師になるような器ではないと考えていましたので、何年か後の神学校入学を目指し、まずは話しが上手くなるであろう学習塾の教師をしばらくやろうと考えました。ある学習塾の就職試験を受け、そこから内定を頂きました。大学4年も終わりに近づき、卒業論文さえ提出できれば、その就職先に行くはずでした。
しかし、その年の11月、ケニアで宣教師をしておられる先生が祈祷会に来られ、このように語りかけて来たのです。「皆さん、自分が何をやりたいかではなくて、誰と共に生きてゆくべきかを考えてください。神様は、あなたが誰と共に生きてゆくことを望んでおられるのかを祈り求めてください」 この言葉に大きな衝撃を受けました。私は、自分の思いや考えを優先していた。神様のみこころはどこにあるのかと、真剣に祈り求めてこなかったことに気付かされました。そして考えました。「いったい、私は誰と共に生きてゆきたいのか?」と。そのとき頭に浮かんできたのは、いつもともにいた教会学校の子どもたちでした。また社会を背後で支えている人たちのことも思いました。当時、アルバイトで新聞配達をしていたのですが、その中で出会った人たち、例えば、同じ配達仲間のおじちゃんたちや、朝早くから公衆電話を掃除しているおばさんやビルの守衛さんなどです。主イエス・キリストの福音をたずさえて、この方々と共に生きてゆきたいと思いました。そして私は、学習塾の教師となる道には進まず、土浦めぐみ教会に残って、神学校の入学へと準備をさせていただく決断に導かれました。
2003年3月、神学校入試の前日、私は自らの弱さと罪深さを示されて、逃げ出したくなりました。大きな恐怖に包まれました。「神様、私には献身はできません。こんな汚れた人間が牧師になどなっていいはずがありません…」そう、うめきながら祈り続けました。 そのとき、「わたしは、あなたが弱いから用いるんだよ」と、神様が語ってくださったように感じました。私は赦されている、守られていると感じ、翌日、安心して神学校の入学試験に臨むことができました。
神学校での学びを通して、私は、自分の過去とどのように向き合っていけば良いのかを教えられました。様々なことを通して、神様は、ゆっくりとですが、過去に縛られている生き方から私を解放してくださいました。
① まず私は、 過去をありのまま受容することを学びました。もう、すでに起こってしまった過去を、「ああ、あれがなければ良かったのに」と後悔するのでなく、変えられない過去を、そのまま受け入れていこうと思うようになりました。神様が、私たちを受け入れてくださったように、過去を「良かった、悪かった」は抜きにして、そのまま受け入れていこうと、思えるようになりました。
② 次の段階として私は、過去を悲しみとして受け取るのではなく、喜び、神様からの祝福として受け取ることが重要なのだと気付かされました。台湾の総統であられた李登輝という政治家が、著書『台湾の主張』の中でこう記していました。「私たち台湾民族は、過去において大きな悲しみ、苦しみを味わってきた。自分たちの国を作ったことがなく、ずっと中国、オランダ、日本などの外国に占領・支配されてきた。私たちは、このことを悲哀として受け止めてきた。しかし、このような考え方を改めていこう。過去を悲哀として、とらえるのではなく喜び、良かったこととして受け止めていこう。なぜなら、台湾民族は多くの国に占領されることを通して多様性を受容し、また国自体も多様性を包含する国家になれたではないか」と。 貧しさを通して、私はお金で買えないもの、目に見えないもののすばらしさにふれることができました。また、私の家族が経済的にどん底の状態にあった時にこそ、実は、神様の祝福が私に上にあったことに気づかされたのです。 一番貧しかったとき、私は、一番素晴らしい友人たちを得ることができました。そのように人生を振り返った時、私の人生のあらゆる場面で、神様が必要な助けを与えてくださったこと、私をいつも守り導いてくださったことに気付かされました。この神様が、私をこれからも死ぬまでずっと、どんな時も守り導いてくださると確信することができたのです。
③ さらに次に教えられたことは、神様の視点で人生を見ていくことでした。人生のマイナスに思える部分(恥も、罪も、挫折も失敗も)、神様の恵み、神様の愛の光に照らされるならば、全部、人生において必要な出来事として見ることができると教えられました。 聖書の登場人物たちもみなそうでした。ヨセフも、ダビデも、ヨブも、ペテロも、トマスも、パウロも、大きな苦しみ、悩み、試練を通らされることを通して、主の器として用いられる人物へと変えられていきました。一人一人苦難を通して、神様の栄光を表しました。悩みを通して、神様の祝福を受け取りました。
人生のマイナスと思える部分も、必要な出来事だったのです。神様は、苦しみを通して、彼らを練り上げ、磨き、主の器として用いてくださったのです。 そんな気付きを与えられた私に、ヘブル人への手紙5章1節から4節までのみことばが与えられました。この箇所は献身の思いを与えられてから、ずっと私の支えとなっているみことばです。
1. 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。
2. 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。
3. また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。
4. また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。
先ほどの聖書交読でレビ記9章のみことばを読みましたが、大祭司に任じられたアロンも欠けがあり、弱さがあり、罪をもった人間でした。だからこそアロンも、自分のために罪をあがなういけにえをささげたのです。そして私たちには、父なる神様と私たちをつなぐ完全な大祭司なる主イエス様が、かつ私たちの全ての罪のためにご自身で身代わりとなられた神の子羊、主イエス様がついていてくださいます。イエス様が罪は犯されませんでしたが、私たちの無知や弱さを理解し、私たちにどこまでも優しいお方です。とんでもなく素晴らしい神様からのプレゼントです。
神様からの素晴らしい御救いを頂いている私たちです。その恵みを覚えつつ、同時にいまだに、罪や弱さが残っている自らの姿にも気付かされます。日々、主に赦され続け、支えられ続けていかなければならない存在です。そんな弱い不完全な器であっても、その器を用いてくださる神様であることを信頼し、どんなときにも主に聴き、主に牧会されながら、これからも共に祈り合って、歩んでいきましょう。祈ります。
みことばへの応答
Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。
1. あなたが、神様の恵みや赦しを経験した最初の日は、いつのことですか? また、 どのようにして、信じる思いへと導かれましたか?
2. これから先、愛と恵みに満ちた神様に、どのようにお応えし、お仕えしていきたいですか? また神様は、あなたが誰と共に生きてゆくことを望んでおられると思われますか?
お祈りの課題など
福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】
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