「神の前に正しいこと」

使徒の働き4章 

 13. 彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。 

14. そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。 

15. 彼らは二人に議場の外に出るように命じ、協議して言った。 

16. 「あの者たちをどうしようか。あの者たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムのすべての住民に知れ渡っていて、われわれはそれを否定しようもない。 

17. しかし、これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅しておこう。」 

18. そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた。 

19. しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。 

20. 私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」 

21. そこで彼らは、二人をさらに脅したうえで釈放した。それは、皆の者がこの出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、二人を罰する術がなかったからである。 

22. このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。 


 礼拝メッセージ 

2022年8月7日 

使徒の働き 4章13―22節 

「神の前に正しいこと」 

 おはようございます。先週木曜日8月4日、ここ福井にも線状降水帯という恐ろしい雨雲が次々に押し寄せて来ました。一日中大雨が降り続きました。あちこちで道路が冠水し、市民全員に避難指示が出されました。あふれる寸前となっていた川もあったそうです。翌朝も大雨で南越前町の今庄では、水や土砂に浸かってしまった住宅が多くあります。 福井県南北をつなぐ鉄道も高速道路も国道も現在、寸断されている状況です。福井県だけでなく、隣の石川県小松市、新潟、山形など各地で大きな被害が出ています。皆さんの周りや関係する方々の中に大変な思いをしている方はおられないでしょうか? 

 私たちの国の至る所で、世界の至る所で、傷みと恐れが生じています。失望落胆し、うめいている方たちがいます。「どうか主よ、この世界を憐れんでください。私たちを救い出してください」と、心合わせて、日々祈り続けていきましょう。   


 みことばを聴いていきましょう。エルサレム神殿の中で、大声で伝道説教をしていたペテロとヨハネは、時の権力者たちの怒りを買い、逮捕されます。裁きの場は、サンヘドリンという名の最高議会でした。この議会は、同時に最高裁判所の役割も果たしていました。全部で70人いたそうですが、議員たちを前にしても、ペテロは少しも臆することなく、ただ主イエス様を証ししたのです。 裁く側にいた「民の指導者、長老、律法学者たち、そして祭司たち」(4章5,6節)は、ペテロたちの様子に大変、驚かされます。

 彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(13節) ペテロたちの言葉や態度は、とても大胆でした。彼らはサンヘドリンの議員たちと比べたら、本当に無知で無学な、ずぶの素人でした。かたや田舎の漁師出身の2人です。それと対峙するのは、70人のエリート集団。みな旧約聖書の専門家です。律法を事細かに研究し、解釈を述べることができました。宗教に関しても、聖書に関しても、神様のことについても、誰も及ばないほどの知識と教養そして経験を持っていた人たちでした。 

 ペテロは、そんな議員たちに「あなた方が、神の御子=キリストを十字架に付けて殺したのだ!あなた方が見捨てた石が、神の手によって礎(いしずえ)の石となったのだ!」と指摘し、彼らに悔い改めを迫るのです。 エリート集団であった議員たちでした。けれども14節の終わりを見ますと、彼らには「返すことばもなかった」のです。反論できなかった・・・否定すらできなかったのです。 

 なぜでしょうか? どうして反論できないほど、ペテロは大胆に力強く語ることができたのでしょうか? それは、まずペテロとヨハネが聖霊に満たされていたからです(8節)。加えて、他にも3つの理由があるのではないかと思います。 

  使徒たちが大胆に証しできた3つの理由。 

 1.  第一に、13節にあるように、ペテロとヨハネが、イエス様とともにいた生き証人だったからです。ペテロたちは、見ず知らずの架空の人物について論じているのではありません。ともに生活し、ともに歩んできたお方=イエス様について証しをしたのです。その証言は否定できない事実でした。 

 私たちも、キリストの十字架によって罪赦され、救いを頂くとき、証しをしたくなります。イエス様の素晴らしさを語りたいと思います。家族や友人たちもイエス様を信じてほしいと切に願うはずです。 

 私たちが勇気を持って、大胆に証しするために大切なこと。それはペテロたちと同じように、いつもイエス様とともにいることです。イエス様の言葉をいつもたくわえておくことです。イエス様の思い・イエス様の歩みを、心にしっかりと刻んでおくことです。そして、いつでもイエス様の臨在を感じられるようにしておくことです。そのことが大胆に証しできる秘訣なのではないでしょうか。聖書が示しているイエス様のおことばと歩みを、もっともっと自分のものとしていきましょう。 


 2.  ペテロたちの大胆さの秘訣、二番目は12節の信仰告白です。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」イエス様以外に救いはない。この確信のゆえに、彼らは大胆になれたのです。どんな人を前にしても、この確信は揺らぐことがありませんでした。 

 私たちは、どうでしょうか?「キリストの他に救いはない」何があっても、この確信・この約束にとどまり続けていきましょう! 


 3.  三番目の理由、それは14節、そして、癒やされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、返すことばもなかった。 実際にイエス様によって救われた人がいるという事実でした。生まれてから40年以上一度も立ち上がれなかった男が、イエス様の力によって立ち上がったのです。躍り上がって、賛美しながら、神殿の中に入って行ったのです。神様から離れていた男が今、神様を賛美している。ペテロたちのかたわらにその男が立っていました。これは否定できない事実でした。 

 私たちも同じではないでしょうか。教会で洗礼式が行われる時、私たちは本当にうれしくなります。「あぁ、この方にも、イエス様はしっかりと届いてくださった!イエス様の救いは確かだ!」と、私たちは洗礼式のたびに喜び、感動します。そして、あの方が救いに導かれたのと同じように、今、私にも救いが確実に及んでいることを感じるのです。他の人が救われることを通して、私たちは自らの救いを再確認させて頂けるのです。 

 ペテロとヨハネの証しに説得力があったのは、癒された男の存在でした。本当なんだ!キリストが死からよみがえり、今も生きて働いておられることは本当なんだ!語っているペテロも、聴いていた人々もみな、この男の存在によって、力付けられ、勇気付けられたのです。 


  サンヘドリンの議員たちは、何も言い返すことができませんでした。そこで彼らは、このような対応をします。15節から18節まで。 彼らは二人に議場の外に出るように命じ、協議して言った。「あの者たちをどうしようか。あの者たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムのすべての住民に知れ渡っていて、われわれはそれを否定しようもない。しかし、これ以上民の間に広まらないように、今後だれにもこの名によって語ってはならない、と彼らを脅しておこう。」そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた。 議員たちは2人を脅(おど)しました。「また同じような演説をしたら、今度は最悪の結果になると覚悟しておけよ」と脅迫しました。理屈では立ち向かえない相手だと分かると、彼らは自らの権威と権力を振りかざし脅しにかかるのです。理由も何もあったもんじゃありません。ただ気に食わないから「今後一切、イエスの御名を語るべからず」と脅し文句を浴びせかけるのです。 

  ペテロたちは、そんな脅し文句に少しも動じません。反対にこう言い返します。19,20節 しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」 

  当時のユダヤ社会では、最高議会は「神の声を代弁している」と考えられていました。宗教家と律法学者らが集まり、決議を下していたからです。ですから、議会の決定に従うことが、神の御前に正しいこととされていました。しかし、その議会が誤った判断を下す場合には、どうしたら良いのでしょう? 議会が神のご計画に逆らう決断をした時には、どうすべきかしょうか? 使徒たちは、大きな問題に直面させられました。信仰と国家権力との対立です。 

  ペテロの答は単純明快でした。一切迷うことなく、ぶれることなく即答します。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください」 どれほど大きな権力であっても、それが人間の手にある限り完全ではない。どんな知識や経験があっても、それが人間のものである限り絶対ではない。 私たちは、ただ唯一絶対者なるお方、神の御声に聞き従う。それが神様の御前に正しいことなんだ! 神様に喜ばれることなんだ! ペテロは、そう確信していました。だから、どんな脅しにも屈しないで、どんな迫害に対しても屈しないで、私たちはイエス・キリストを証しし続けていくと、高らかに宣言したのです。 

  ペテロのこの言葉を聞きながら、私は先の大戦、太平洋戦争中の日本の教会の歩みを振り返らされました。昨日8月6日は、広島に恐ろしい原子爆弾が投下された日です。終戦から77年目の夏です。今から80年ほど前、戦時下にあって、私たち日本の教会は、神の声に聞き従わず、人の声に聞き従ってしまいました。 当時の日本は、国中が軍国主義に染まり、戦争へまっしぐらに突き進んでいた状況だったでしょう。言論の自由も、信教の自由も保障されていない(反対に弾圧されていた)中で、特高警察が教会に入って来て、牧師や信徒たちを見張っていました。投獄され、殉教した牧師たちがいました。今、そのような厳しい状況を生きていない私たちは、当時の教会やクリスチャンを責め立てることはできないでしょう。当時、苦しい状況の中で、必死に信仰を守り抜こうとしたクリスチャンたちがいたことも 事実です。けれども、日本の教会が実際に犯してしまった大きな罪から、私たちは目を背けてはならないのです。 

 日本の教会が犯してしまったこと。年代をおってその一端を紹介します。 

· 1938年(昭和13年)、日本のプロテスタント教会のリーダーであった牧師が、朝鮮半島を訪問します。当時、日本の統治下に置かれていた朝鮮の教会は、日本政府から「神社参拝をするように」と強要されていました。神社参拝を拒否し、闘っていた朝鮮の牧師に向かって、日本人牧師は、こう説得したそうです。「神社参拝は、国家としての儀礼だ。宗教行為ではないのだから、それを受け入れなさい」と…。 

 · 1939年(昭和14年)、日本国は宗教団体を完全に掌握するため「宗教団体法」という法律を可決します。それによって、小さな宗教団体では国から認可を受けられなくなってしまったため、プロテスタント全教派は統合へと動き始めます。 

· 1941年(昭和15年)、プロテスタント全教派は統合し、一つの教団(日本基督教団)となるのですが、翌年1月、新しい教団の指導者は、その教団の繁栄を祈るために伊勢神宮へと参拝に出かけます。 

· 1942年(昭和16年)の12月、教団は各教会に対して、礼拝前に国民儀礼を実施するようにと通達を出します。教会の礼拝前に皆で君が代を歌い、宮城(きゅうじょう)遥拝(ようはい)(皇居の方向を望み、頭を下げて敬礼すること)が行われました。 

· 教会では、戦争に勝つようにとの祈りがささげられ、さらに戦闘機を購入するための献金がささげられていました。 


  私たち日本の教会は、十戒の第一戒「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト記20:3)に従えませんでした。また十戒の第二戒「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」(出エジプト記20:4)にも従えませんでした。神の言葉よりも、人の言葉を優先してしまいました。特に国家権力者の言葉に聞き従ってしまったのです。それが私たち日本の教会がおかしてしまった罪です。神様の前に、正しいことを選択できなかった私たちでした。多くの人々を、特に数え切れないアジアの人々を殺(あや)め、苦しめ、傷めつけた「あの戦争」に教会は加担してしまったのです。この罪を、私たちは忘れてはいけません。 

  先ほど交読したダニエル書 9章のみことばは、預言者ダニエルの悔い改めの祈りです。ダニエルは自分自身が犯した罪というよりも、自分たちの先祖、自分たち民族が神様に背き、罪を犯したことを告白し悔い改めます。母国が、聖なる都が、そして神殿までもが外国軍に破壊され、バビロン捕囚の試練に遭い、今ペルシャにダニエルたちは滞在している。それは私たちが神様に背いたからですと告白するのです。そして「赦してください、御怒りを遠ざけ、もう一度、神の都の輝きを回復してください」とひれ伏して祈ったのです。 

 私たちも、このような悔い改めをしていかなければいけないのではないでしょうか。 主の前に、日本の教会が犯してしまった罪を認め、「赦してください」と心から祈り求めていきましょう。「再び迫害の日が訪れたとしても、私たちが過ちを繰り返さないようにさせてください」と祈り、備えていく必要があるのです。「迫害の日にも主を裏切ることのないクリスチャンとならせてください」そう祈り続けていきましょう。どんな状況に置かれても、「人であるあなたではなく、神にのみ聞き従います」と告白できる私たちでありたいと心から願います。祈りましょう。 


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