「みことばを大胆に」

使徒の働き4章23ー31節

 23. さて、釈放された二人は仲間のところに行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。 

24. これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた。「主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。

25. あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか。 

26. 地の王たちは立ち構え、君主たちは相ともに集まるのか、主と、主に油注がれた者に対して。』 

27. 事実、ヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人たちやイスラエルの民とともに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、 

28. あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行いました。

29. 主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。 

30. また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」 

31. 彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。 



 礼拝メッセージ 

2022年8月14日 

使徒の働き 4章23―31節 

「みことばを大胆に」 

 おはようございます。江戸時代から明治初期まで「切支丹(キリシタン)禁令」の高札(こうさつ・たかふだ)なるものがありました。バテレン(カトリック教会の宣教師)やキリシタン、再びキリスト教信者となった者を訴え出た(密告)者に褒美を与えること、隠し立てすれば名主を始め、五人組まで罰すること等が記されてありました。高札は全国各地の村々の高札場に掲げられ、村人の目に常に触れられるように 置かれていたそうです。現在の町内掲示板にあたるようなものですが、当時はお上からの情報伝達の場で、大いなる権威を持っていました。― 1868年(明治元年)、現在の福井市舟橋町辺りにも「切支丹札」が掲げられ、新政府がキリスト教の信仰を禁じたことを伝えました。欧米諸国から厳しく非難された新政府は6年後に禁教令を廃し、高札を撤去した - という記録も残っています。 

 今朝、与えられたみことばにも、政府のような国家権力からキリスト教の布教を禁じられた最初のクリスチャンたちの姿が出て来ます。「今後一切、イエス・キリストという名前を持ち出して、人々に語ったり、教えたりしてはならない」とペテロとヨハネは、きつく命じられました。教会にとって最初の迫害でした。「宣教をしてはならぬ」と国家権力からおどされます。

 しかしペテロとヨハネは、法廷で指導者たちを前に、少しもひるまずにこう答えます。


4章の19,20節、  しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」 

  

ペテロたちの信仰と姿勢は、すべての教会員たちにも共通していました。釈放された2人は、まず仲間たちが待っている教会に向かいます。「法廷で何と言われたのか、それに対してどのように反論したのか」をペテロたちは残らず報告しました。 

  最初のクリスチャンたちは、自分たちのリーダーが逮捕されたこと、そして宣教が禁じられたことを聞いたとき、恐れおののいたでしょうか? 「私たちもイエス様と同じように捕らえられ、殺されてしまうのではないか・・・そんなのごめんだ」と、信仰を捨てて、教会から離れて行こうとしたでしょうか?  いいえ、逆でした。クリスチャンたちは、より一層、信仰を強くし、ただ主だけを見上げて、祈り始めたのです。24節、「これを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって声をあげた」 教会が心を一つにして、祈り始めます。 「主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です」 天地万物のすべてと、そこに生かされている動植物そして私たち人間すべてをお造りになり、支配しておられる主よ、と彼らはまず神様に呼びかけます。私たちを生かし、私たちを守っていてくださるお方を、信仰をもって見上げるのです。 どんな迫害が待ち受けていようとも、どんなおどしがあろうとも、主の絶対的主権は揺るがない。彼らはそう告白します。

 そして25節から、先ほど交読しました詩篇2篇のみことばを引用しながら祈ります。


25,26節 あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか。地の王たちは立ち構え、君主たちは相ともに集まるのか、主と、主に油注がれた者に対して。』  


 イエス様が御苦しみを受けること。同じように、イエス様を信じる者たちも苦しみを受けること。そのことは、すでに旧約聖書の中で預言されている。初代教会の信徒たちは、みことばからそのことを示されました。

 最初のクリスチャンたちは、詩篇2篇2節最後の「主に油そそがれた者」とは、イエス様のことだと理解しました。「キリスト」という言葉は、「油注がれた者」という意味です。旧約聖書の時代、特別な職務に任じられる際に、その人の頭に油が注がれました。その職務は、王と祭司と預言者でした。主イエス様は、天地万物すべてを治めておられる王なるお方です。また父なる神様と私たちをつないでくださる祭司です。そして、神のみことばを伝える預言者でもあるのです。 

  けれどもこの世は、油注がれたお方=キリストに逆らったのです。イエス様を神の子=救い主とは認めませんでした。反対に、このお方を神を冒涜する者と断罪し、十字架に付けて殺してしまったのです。 イエス様は、ヨハネの福音書の中で、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害します」(15:20)と、弟子たちに語っておられました。イエス様が迫害されたのと同じように、あなた方も迫害される。真の神を否定し、キリストを否定する者たちによって、クリスチャンは迫害されるとイエス様は前もって、私たちにも覚悟しておきなさいと示してくださったのです。 

  またみことばは、そこで私たちが恐れおののく必要はないとも教えています。詩篇2篇で、ダビデは迫害があることを語った後、4,5節でこう歌います。 


4. 天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。 

5. そのとき主は 怒りをもって彼らに告げ 激しく怒って 彼らを恐れおののかせる。  


 どんな迫害の魔の手が伸びてこようとも、主は決して揺るがされない。神様は天で、迫害を加える者たちを笑い飛ばし、あざけっておられる。主の勝利、主の主権は、どんな状況になっても決して変わらない。ダビデは信仰によってそう告白したのです。   

 初代教会のクリスチャンたちも、ダビデと同じ信仰を与えられていました。


使徒の働き4章の27,28節  

 事実、ヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人たちやイスラエルの民とともに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行いました。 

 

  キリストの受難、それはヘロデやポンティオ・ピラトといった、この世の権力者の手によるものでした。異邦人とイスラエルの民が手を結んで、イエス様を十字架に追いやりました。しかし、イエス様の受難と復活は、父なる神の御手の内にあり、ご計画(みこころ)通りの出来事だったのです。 ― イエス様が身代わりに罰せられることで、私たちに神様との平安が与えられました。 ― イエス様の打ち傷によって、私たちは罪が赦されているのです (イザヤ53:5)  イエス様が十字架で死なれたこと、よみがえって今も私たちと共に生きておられること。これらすべてが、私たちを罪と死と滅びから救い出そうされる主のみこころでした(イザヤ53:10)。 

  初代教会のクリスチャンは、この主のみこころを確認しながら、私たちが、迫害を受けることも、主の御手の内にあり、主のご計画(みこころ)が実現していくことなのだと確信したのです。 

  うれしいこと、人間的に見て幸せなことだけが、主のみこころではないのです。ときに私たちに押し寄せてくるつらいこと、悲しいこと、苦しいことも、主のご計画の中にあって、実は最善の出来事であり、みこころなのです。 彼らは続けてこう祈ります。


4章の29、30節、 主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」 


  主よ、あなたは私たちがどんな状況に置かれたとしても、私たちのことをしっかりと見ていてくださるのですね。私たちのことを心配していてくださるのですね。この迫害も、主の御手の内にあり、みこころなのですね。ですから、どうか私たちにみことばを大胆に語らせてください。おどされても、ひるまないで語らせてください。あなたの力によって、救いの御業をなさせてください。初代教会の信徒たちは、そう祈ったのです。

  「迫害を取り除いてください。迫害を止めさせてください」そうは祈りませんでした。どんな迫害下にあっても、大胆に・大っぴらに、イエス様の素晴らしさと御救いを宣べ伝え続けていけますように。またイエス様の御名(御力)によって、うなだれている人たちを立ち上がらせ、病む人を癒す奇跡を行なわせてくださいと、祈ったのです。


  私たちも、こんな祈りができるでしょうか? 迫害の中に立たされた時、試練に直面させられる時、こんな祈りができるでしょうか?  この後、「歌いつつ歩まん、主にすがる我に悩みはなし」という聖歌で主を賛美します。聖歌の498番です。その2節には、こうあります。「恐れは変わりて祈りとなり、嘆きは変わりて歌となりぬ」 初代教会の信徒たちは、迫害が迫る中で全く恐れなかったということはないでしょう。身の危険・命の危険を感じ、恐れを抱いたでしょう。けれどもそこで、天地の造り主なる神様を見上げたのです。みことばを信頼し、心を一つにして祈ることができたのです。恐れから祈りへ、嘆きから賛美へ、これこそ信仰者の強さです。人間的に見るなら、どうしようもできない。そう思ってしまう時、主を見上げ、祈ることができる。しかも自分一人ではなく信仰の仲間たちがいる。彼らと心を合わせて、ともに祈り合うことができる。これこそクリスチャンの強さであり、喜びはないでしょうか! 

  そして聖書は、心を一つにして祈った祈りに、主が確かに応えてくださったことを記しています。


使徒の働き4章31節、 彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。 


 また5章の12―16節には、 

12. さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。 

13. ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。 

14. そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。 

15. そしてついには、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせて、ペテロが通りかかるときには、せめてその影だけでも、病人のだれかにかかるようにするほどになった。 

16. また、エルサレム付近の町々から大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人々を連れて集まって来た。その人々はみな癒やされた。 


  神様によって、私たちの祈りは聞かれます。主の御力によって、初代教会の大胆な宣教は、さらに前進していきます。迫害・妨害によって、宣教は後退しませんでした。これは聖霊の御業です。聖霊に満たされたクリスチャンは力を得、恐れを取り除かれて、大胆に出て行って語り始め、主のみわざを続けたのです。  

 私たちは、どうでしょうか? 人を本当の意味で生かす神のことば、いのちのみことばをしっかりと心にたくわえていますか? それを語ることができていますか? みことばに従って歩んでいますか? みことばを実践できているでしょうか?  

 私の力、人間の意思や頑張りでは、それはなし得ません。聖霊に満たされ、聖霊に導かれて行う業です。聖霊は、私たちの助け主です。私たちのかたわらに寄り添って、私たちを励まし、慰めてくださるお方です。私たちのうちに住んでくださり、私たちを勇気付けてくださいます。  

  お祈りしましょう。   


みことばへの応答 

 Q. 考えてみましょう。以下、自由にご記入ください。 


 1. 「恐れは変わりて祈りとなり、嘆きは変わりて歌となりぬ」  

 これまでの信仰生活で、そのような経験があったでしょうか? 



 2. みことばを誰かにプレゼントして、その方を励まし・力付けてみませんか? 

 あなたがクリスチャンであること、教会に集っていることを伝えることによって、周りに良い影響がもたらされることを期待し、一歩踏み出してみましょう。 


 お祈りの課題など 


       

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