「神だけを信じて‐命がけの出産‐」

ルカの福音書2:1-7
1. そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2. これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
3. 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
4. ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
5. 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
6. ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、

7. 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。


第四アドベント礼拝メッセージ

2022年12月18日

ルカの福音書2:1-7

「神だけを信じて‐命がけの出産‐」


 世界で初めのクリスマス。主イエス様が誕生された時、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と聖書は記録しています。

 長野市にいましたある年、4月に東京の教会から講師と賛美ゲストをお呼びして、特別な集会をしようと準備しました。前もって先生方のお泊りの場所をとインターネットで探しましたが、なぜかその前日の土曜日だけは、長野市中のホテルと言うホテルが満室になっているのです。冬のオリンピックも開催された町ですから、駅周辺には十分な泊まる場所があるはずでした。

 調べてみますと、次の日の日曜日に長野マラソンという大掛かりな市民マラソンが開催されるということで、何千人ものランナーや旅行会社が早くにホテルを予約していたのです。困りました。「どうしよう…宿がない。」あせりました。講師の先生方に馬小屋に泊まって頂くわけにはいきません。近隣の町村も探したところ、北の町のペンションに空きがありましたので、そちらに予約を入れ、泊まって頂きました。

 ベツレヘム中の宿という宿が満室だった。その時、ヨセフとマリアが感じたであろうあせりや不安、困惑を、少し体験した長野での出来事でした。

 今から2020数年前、広大な領土と絶大な権力を誇っていたローマ帝国は、ユダヤの地も、ガリラヤ地方も支配していました。ヘロデという領主を立てたり、キリニウス・後にはポンティオ・ピラトという総督を立てたりと、様々な方法で支配しました。

 神の御子イエス様が天から降り、赤ちゃんとして生まれて来てくださった時のローマ皇帝はアウグストゥスです。ローマ帝国最初の皇帝です。内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一しました。政治的にも、軍事的も秀でたリーダーでした。8月を英語でAugust(オーガスト)と言いますが、アウグストゥスが自分の名前(授けられた尊称・称号)を付けたそうです。それほど絶対的力を持っていた皇帝がローマ帝国中に「住民登録をせよ」と命じます。

 それぞれの本籍地と言いますか、自分のルーツの町に帰らされ、そこで「名前と職業、財産や家族構成など」を登録しなければならなくなりました。住民登録をさせたローマ皇帝のねらいは、帝国中の人間とその財産を把握し、一元的に管理すること。そして沢山の男たちを兵役に就かせ、できるだけ沢山の税金を集めるためでした。イスラエルの男たちには、兵役の義務はありませんでしたが、ヨセフたち皆がさせられた住民登録は税金の効率的徴収のためでした。

 赤ちゃんイエス様をお腹に宿したマリアと夫ヨセフは、時代の荒波にもまれるようにベツレヘムへ向かって行きます。それは、ローマの王座にまるで神のように君臨していた皇帝には決して気付かれない、小さな目立たない夫婦の旅立ちでした。

 この時の住民登録は、ローマ皇帝の独断のように見えます。けれども、その背後に神様の完全なご計画と導きがありました。救い主がベツレヘムで生まれるという神様の約束が実現していくのです! イエス様誕生よりも700年も昔、イザヤと同時代に生きていた預言者ミカは告げました。

ミカ書5章2節 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのために イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」

 マリアとヨセフがベツレヘムに向かっていく、そこでイエス様がお生まれになる。すべてが神様のご計画だったのです。しかしヨセフとマリアには、まだそんなことは分かりません。身重の妻です。普通なら長旅は、ましてや歩いての長旅は避けるべきですが、妻が妊婦だという事情をローマ軍の兵士は汲んでくれません。危険を承知の上で夫婦は荷作りをし、ナザレから旅立なければならなかったのです。

 マリアの夫ヨセフはダビデ王家の末裔(まつえい)でした。今は大工をしていますが、元々はユダヤ王家の血筋。今はイスラエル北部のナザレ村に住んでいますが、ダビデの出身地は南の町ベツレヘムでした。ナザレとベツレヘム、距離にして約150キロ、歩いて五日はかかる所でした。出産間近のマリアが一緒ですから、もっと日数を要しただろうと思います。

 スマホに入っているグーグルマップという地図のアプリで、ナザレとベツレヘムへの歩いての旅を検索してみました。現在の道路環境でも距離145キロ。ぶっ通し歩いて31時間かかると出ました。1日5・6時間、歩けたとしても、五日以上かかります。

 ここから同じような距離にあるのは、福井県を飛び出して京都の舞鶴(まいづる)あたりです。私はまだ敦賀辺りにまでしか行ったことがありませんが、かなり遠いですよね。そこまで歩いての旅です。

  マリアはロバに乗せてもらえたかもしれませんが、それでも大変な旅であることに変わりありません。妊娠していた頃、私の妻がそんな長距離を歩けたとは想像も付きません。普通に生活していても、「息が上がる…腰が痛い…ゆっくりしか歩けない」と口にしていました。二人の子が胎内にいたせいもあったでしょうが。 

 ヨセフとマリアの旅は、まさに命がけの旅でした。母体に大きな負担がかかる危険な旅でした。医者であったこの福音書の著者ルカでなくとも、無謀だと分かる旅でした。しかし、そうせざるを得なかったのです。神の御子の誕生は最初から危険の連続でした。父なる神様は、そのような危険を承知の上で、私たちのために救い主をこの世に送ってくださったのです。

 無理ができないマリア、無理をしてはいけないマリア、結婚したばかりの夫婦にとってナザレからの道のりは、どれほど不安で、どれほど心細かったことでしょう。それでも「インマヌエルの主=私たちと共にいてくださる神様」を思いながら、絶えず祈りながらの旅だったと思います。神様だけを信頼して、御告げを与えてくださった神様だけを信頼して、彼らは命がけの旅、命がけの出産に臨むのです。

6. ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、7. 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで、飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ベツレヘムにようやく到着し一息つく間もなく、マリアは陣痛を感じ始めます。「初産の場合、陣痛開始から出産まで平均12時間以上です」と以前、産婦人科主催のマタニティ(妊婦)セミナーで、夫婦で学びました。マリアたちは出産場所も助産婦さんも何も決まっていません。宿屋はどの部屋も満室で、飼い葉桶(おけ)のある家畜小屋しか、あるいは家畜が寝ていた洞窟しか出産できるスペースは残っていなかったのです。

 危険な旅をし、さらに危険な状態で、主イエス様は生まれて来てくださいました。

 誕生後、赤ちゃんイエス様は布にくるまれて、飼い葉桶(おけ)に寝かされます、このみことばを読んで、私は驚きました。神であるお方が、全世界の造り主、すべての支配者なるお方が、完全になされるがまま、受け身なのです。もちろん赤ちゃんですから、自分の力で産着を着たり、ベッドに身を横たえたりすることはできないことは分かっています。それでも神の御子が、ここまで小さく弱き者になってくださったのです。

 天地創造にあたっては、この地球を大きな空気の層でくるみ、陸地と海でくるんでくださった神様が、クリスマスの日、産着にくるまれ、飼い葉桶に寝かされたのです。

 布にくるまれたという出来事をイエス様はもう一度体験されます。先ほど交読した聖書箇所、イエス様埋葬の場面です。

ルカ23:53、 彼(アリマタヤのヨセフ)はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。

 お生まれになった際にも、また命を落とされた際にも、イエス様は布にくるまれたのです。私たち人間には、自分の思いや力ではどうしようも出来ないことが色々あります。特に誕生と死に際しては、私たちはひたすら受け身です。主イエス様はそんな私たちと本当に同じ姿に、同じ状態にまで下って来られたのです。本当にすごいことです。

 父なる神様は、御子をこの世に遣わされるために、一組の夫婦を選ばれました。マリアとヨセフに、特別な使命を託されました。マリアとヨセフは、命がけの旅をし、命がけの出産に臨みました。ただただ神様の約束と、神様の守りを信じての歩みだったと思います。

 今年のクリスマス、ルカの福音書の降誕のみことばを開いていく中で、「信じること」や「信仰」の素晴らしさに気付かされました。また同時に私は気付かされました。私たちが神様を信じるより先に、神様が私たちのことを信じていてくださるのではないかいうことを!

 私たちは本当に不確実な存在です。罪深くて、誠実でない面もありますし、いい加減なところや、失敗をやらかしてしまうこともあります。そんな私たちですが、父なる神様は、私たちに御子イエス様を託してくださったのです。

 

 まず神様が、私のようなものを信頼してくださった!だから私たちはその信頼に応えたいと主を信じるのです。


 まず神様が、私たちのような罪人を愛してくださった!尊いひとり子をお与えになるまでしてくださった! だから私たちはその愛に応えて、主を愛して生きていきたいのです。


 「いのちのことば」という書籍紹介の小冊子の中で、徳田信(まこと)牧師が「私の信仰に先立つ、神の真実と支え」という文章を寄せていました。抜粋して紹介します。

 信仰とは私ひとりで歯を食いしばって握りしめるものではなく、神と、神が備えてくださっている人々(教会の仲間たち)によって育まれ、支えられていくものです。かつての自分は、“私の信仰”ばかりに思い悩んでいました。しかし、救いの根拠が私の信仰ではなく、“神の真実”にあると見出したのです。 そもそも、私たちの信仰心や決意などおぼつかないものです。立派そうなことを書いたり語ったりしている私自身、主イエスが喜ばれない様々な思いにかられることがあります。「私の信仰」など本当にもろいものです。 しかし主なる神さまは違います。私たちの髪が白くなっても、たとえ前後不覚になっても、どこまでも背負い続けてくださるお方(イザヤ46:4)、大切なひとり子を犠牲にして私たち一人ひとりの罪を赦し、その御腕に抱いてくださるお方です。
 神の側から“真実・信”が示されました。私たちはその“真実・信”を受け止め、感動・感謝をもって、神が身をもって示してくださった“真実・信”を、私たちの生き方に反映させていくのです 。

最後に ヨハネの手紙 第一 4章9,10節 のみことばを心から聞いていきましょう。

9. 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10. 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

祈りましょう!



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