「ともに生きるために」

マタイの福音書 5章17―26節
17. わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
18. まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。

19. ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。

20. わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

21. 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

22. しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

23. ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、

24. ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

25. あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。

26. まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。


礼拝メッセージ

十戒シリーズ ⑦

2024年10月13日

マタイの福音書 5章17―26節

「ともに生きるために」


十戒の六番目の大切な戒め「殺してはならない。」(出エジプト記20:13)を考えます。これは、すべての人が納得し、分かり切っているように思われるルールです。どの宗教も、どの国の法律も殺人を禁じているでしょう。それを犯せば、死刑にも値する重罪として罰せられるでしょう。

それでも国内でも、世界でも、毎日のように恐ろしい殺人事件が起きています。何よりも、今も戦場で数えきれない兵士たちと一般市民が殺され続けています。

先月18日、時事通信は「ウクライナ側が今年行った極秘調査では、同国軍の累計の死者は8万人」と報じ、先月20日のBBCニュースは、「ウクライナにおけるロシア兵の死者数が7万人を突破した」と報じています。
また「ハマスによるイスラエル攻撃から10月7日で1年が経過した。10月6日現在、パレスチナ自治区ガザ地区で拘束されているイスラエル人の人質は、死亡したとみられる35人を含め101人となっている。イスラエル側の死者は1,697人。一方、ガザ地区での死者数は4万1,825人。またレバノンの死者は10月6日現在で2,036人に上っている。」と伝えられています。

戦争がなければ、失われなかった命です。私たちの国も80年前には、恐ろしい戦いのただ中にありました。

「敵は撃つべし、殺すべし…」という時代が再び来ないように、そのような価値観に毒されないように、私たちは絶えず「殺してはならない」という戒めを覚え続けていきましょう。神様が「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と見ておられ、神のかたちに神に似せて造られ、いのちを与えてくださった特別な存在=人間を私たちも互いに敬い合い、生かし合う道に進んで行きたいと思います。ひとり子イエス様が、身代わりにそのお命まで犠牲にして、救い出そうとしておられる私たち人間です。互いに憎しみ合い、つぶし合い、否定し合い、その存在を消そうとするのではなく、互いにともに生きる道、生かし合う道を選び取っていきたいと願います。

主イエス様がそのために教えられたことは、また自ら示してくださった生き方は、互いに愛し合い、赦し合い、和解し、仕えあうことでした。

イエス様は山上の垂訓の中で、「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(マタイ5:20)と語られます。その場で聞いた人たちは、相当なショックを受けたでしょう。聖書の時代、律法学者もパリサイ人も厳格に生きることを競い合っていました。出エジプト記、レビ記、民数記、申命記といった律法の書をこと細かく研究し、それを文字通りに行おうとしいました。彼らは神の律法を613のルールに細分化し、さらに細かな解釈を1,500以上定め、それらを全て守り行うことによって、神の前に正しい=義人と認められようとしていました。

 一般大衆からは「とてもあのようにできない!」と尊敬されていました。そんな「律法学者やパリサイ人の義に勝らなければ、天国に入れない」と言われたら、「じゃあ、いったい誰が天国に行けるの?」と戸惑ったはずです。

ここでもう一つ気付かされることは、直前の19節のみことばです。「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」

律法学者・パリサイ人の正しさに勝らなくては天国に入れないと言われている一方で、戒めを破ったり、破るように人に教えたりしている者が、天国で最も小さい者と呼ばれるというのです。「妙だなあ?おかしいなあ?」と感じませんか。

みことばに従えない者、みことばを破るように教えるひどい人であっても、「最も小さな者」と呼ばれてしまうかもしれませんが、それでもちゃんと天国に入っているのです。一方ではパリサイ人に勝らねば天国に入れないと教え、もう一方では、破っても天国に入っているというのです。この矛盾とも思えることは一体どういうことなのでしょうか?

それは、イエス様が私たちに求めておられる義(正しさ)と、パリサイ人が行っている義は、種類が違うということです。パリサイ人の義に勝るようにというのは、身長を比べ合って、「どっちが高い・低い」と言い合うようなものではなく、まったく別次元のもの、質が違う正しさなのです。

私たちは、律法を完全に守り行うことに関しては、みな失格者です。外見上は正しくふるまえたとしても、心の中にあるものを知られたら、ひどいものがいっぱい出て来ます。だからこそ、「私は、神様の前で正しくない人間です、罪人です」と認め、主イエス様が与えてくださる完全な赦しと救いにより頼むのです。

イエス様は、みことばに完全に従えない=律法に背いてしまう私たちのために、 十字架に架かり、身代わりにその罰を受けてくださいました。わたしはそのために天からこの地に降って来たのだと語られます。17,18節です。

「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」

律法や預言者=これは旧約聖書のことですが、神様の約束・神様の要求をすべて満たすためにイエス様は来てくださり、十字架に架かって死なれました。律法の要求(犯した罪の償いをし尽くさなればならないこと)を、イエス様は身代わりにすべて満たしてくださったのです!

 神様の前における私たちの正しさとは、私たちの立派さや私たちの行いによって獲得するものではありません。律法の要求を全て満たしてくださったイエス様を信じ、イエス様につなげられることによって、イエス様から与えられる正しさなのです。それがパリサイ人・律法学者に勝る義なのです。

自らの至らなさ、罪深さを認めて、悔い改めていく私たち。そして主イエス様を信じて、赦され、神様に義とされた私たちです。私たちは、その義にふさわしく、正しく歩んで行きたいと願います。神様のみことばに聴き従って生きていきたい。それを具体的に、実践していきたいと願うのです。もうみことば・律法・戒めとは無関係ではなく、反対にそれを求め、その本当の意味を探り、従って生きていく私たちでありたいのです。

例えて言えば、親が子である私に対してどこまでも愛情深いことを信じられずに、いつも親の顔色をうかがい、恐れながら、いい子を演じる生き方を止めることです。反対に、親の愛を心底実感し、こんなにも愛してくれている親の期待に応えたい、親の喜ぶことをしたいと願うことなのです。父なる神様は、私たちに後者の生き方を願っておられるのではないでしょうか。

それが具体的にどういうことなのか、どう生きることなのか、イエス様は続けて21節から教えてくださっています。

昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

ユダヤ教の会堂で、人々は律法の教師たちから、「これが神のみことばだ、これが神のみこころだ」と教えられて来ました。しかし教えている側が、この教えを誤って理解していました。「人を殺さなければ、罪ではない」と理解したのです。ですから律法学者・パリサイ人は、「自分は小さな頃から、この戒めを完全に守り行っている」と自信を持っていました。

けれども主イエス様は、ご自分の弟子となる者たちに、つまり私たちに、律法学者・パリサイ人に勝る正しさを求めておられるのです。行為としての殺人を禁止することにとどまらず、心のあり方を問われるのです。

イエス様は、22節から行為としての殺人ではない殺人を三つあげています。

① 兄弟に対して怒ること。腹を立てること、すぐにかっとなること。 ― 皆さんは、どうでしょうか? 

② 兄弟に向かって「ばか者・能無し」と言うこと。「空っぽな人間だなあ。まぬけだ」と人を軽んじることです。

③ 「愚か者」と言うことです。「ひねくれもの、へそまがり、反逆児」とののしることです。

家庭の中で、夫と妻の間において、親子、兄弟・姉妹の中で、友人や学校、会社の中で、TVに出てくる芸能人や政治家に向けて、こういう発言を一度もしたことが無い、こういう感情を今まで一度も抱いたことが無い、と言える人は一人もいないはずです。

こういうことは、ナイフやピストルなど凶器によらないものですが、心の中で、また言葉で人を軽んじ、見下し、おとしめ、否定し、無視し、葬り去ることなんだ、これも「人を殺す」ことなんだと、イエス様は教えるのです。こういった心の中の思いが、熟していき、極限の状況に置かれたり、サタンのささやきに飲まれてしまう時に実際の殺人につながるのです。

神様が私たちに与えてくださったルール、十戒や律法、みことばは、社会が安全に、秩序正しく保たれるようにという法律にとどまりません。私たちが神様の前にどうしたら正しく歩めるかというルールです。

イエス様は、行為として「殺人を犯さない」というレベルではなく、もっとより広く、もっとより深く、この律法の本当の意味を私たちが理解し、具体的にそう生きることを求めています。それは、「人を殺さない」ということではなく、「人を生かすこと。ともに生きること。そのために人と和解すること」です。否定的に「~しない」だけでなく、積極的に「~をする」ことです。

人に腹を立てる、すぐにかっとなる、馬鹿だなあと思ったり、口にしてしまう私たちは、みな神様の前で有罪です。25節後半に、「そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。」とあるように、私たちが赦されないまま、神様の法廷に立ったならば、有罪判決を受け、牢に投げ込まれ、26節で言われているように、最後の1コドラント(ローマ帝国の最小の貨幣)をも支払い切れず、刑罰を受けなければならない。それが本来の罪人である私たちの姿なのです。

だからこそ、まず神と和解しなさい、そして人と和解しなさいと、神様は私たちに求めておられます。

「人を殺さない」ということより、誰かと「和解する」ことの方が、はるかに難しいことだと思います。相手が謝罪して来た時、「いいですよ」と赦してあげ、和解することはできたとしても、自分から相手に謝罪し、和解をしてもらうことは、何か負けを認めるようで、簡単にはできません。こちらの和解したい思いを、相手が受け入れてくれないこともあるでしょう。ハリネズミのように怒って、針を向けている人に、近づくことは身の危険につながりかねません。

この難しい「和解」ということを、まず表してくださったのがイエス様なのです。十字架の命がけの犠牲によって、父なる神様と私たちの関係が和解させられたのです。この和解を頂いた者として、このイエス様の和解ゆえに救われた者として、私たちは具体的に「平和を作るもの」、「人と和解し合うもの」になっていきたいのです。

23,24節は、「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」と命じます。

互いに生かし合うために、ともに生きるために、私たちに求められているのは、仲直りです。謝罪です。和解です。言うは易く行うは難しであることは、私自ら自覚しています。

心の中で殺してしまっているあの人と、共に生きるために、自分の頭から・記憶から消し去っているあの人とともに生きるために、私たちは和解をしていきたいのです。

創世記33章のみことばを交読しました。双子の兄エサウをだまし、長男の祝福を横取りした弟のヤコブでした。激怒する兄から「殺してやる」(27:41)と狙われていたヤコブでした。しかし、20年の時(創世記31:41)を経て、双子の兄弟は和解したのです。

神様は、カインとアベルの時のようなおぞましい兄弟殺人事件が再発することを許しませんでした。怒りを買い、ねたまれて当然のように思われるヤコブを、エサウから遠ざけてくださり、双子の兄弟それぞれを守ってくださいました。アブラハム・イサクの子孫を絶やさないように、ヤコブの子孫としてお生まれになる救い主イエス様への系図が切れないように守ってくださったののです。

和解まで20年かかりました。燃えたぎる怒りを冷却するために20年必要だったとも言えるかもしれません。

和解を願っている存在がいるでしょうか? すぐにはかなわなくても、神様の時と導きがあることを信じて、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」(マタイ6:12)と祈り求め続けていきましょう。

祈ります。

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